■益軒先生伝■





福岡の少年少女たちよ、この地に偉大な学者がいたことを忘るるなかれ!!

「大阪夏の陣」が終わり太平の世になって15年、益軒は福岡城内の官舎に生まれます。 そして19歳で二代藩主黒田忠之に使えますが、何が起こったのか翌年には閉門、翌々年には浪人してしまいます。 6年後には父・貝原寛斎のとりなしで、忠之から光之へ代の替わった黒田藩へ復帰し、 藩内の政務、教育、家史の編纂などに携わります。 71歳で黒田藩の公務より引退し、執筆活動に専念します。「筑前國続風土記」はこの引退の前後に書かれ、 その他の主な著書も引退後に書かれたようです。
ところで益軒は若き頃より人並み外れた読書量を積んだようで、自身の著作自体にも参照した古書が数えられない程に登場します。 また益軒の著作からは「先入観」や「噂」のみに囚われず、自ら足を運び、自らの五感で感じ、 そして自らの力で考える事の重要性を説く姿勢が強く感じられます。 医者、教育者、施政提案者、鉱物学者、植物学者、動物学者、歴史学者、執筆者、哲学者と多彩な顔を持ち、 来日したドイツの医者・シーボルトから日本のアリストテレスと評されたその功績は、 この「並外れた読書量」と「客観性を追及する姿勢」が基本となっているに違いありません。





■益軒先生年表

1630年( 1才) 福岡城内に生まれる。

1638年( 8才) 父・貝原寛斎に従い飯塚に移り住む。

1642年(13才) 母と死別する。

1648年(19才) 二代藩主・黒田忠之に使える。

1649年(20才) 忠之より「閉門半月、謁見不能四ヶ月」を命ぜられる。

1650年(21才) 浪人となる。

1656年(27才) 父のとりなしで復帰し三代藩主光之に仕える。

1657年(28才) 藩命で京都に遊学する。

1671年(42才) 藩主光之に「黒田家譜」の編纂を命じられる。

1678年(49才) 「黒田家譜」完成する。

1679年(50才) 宮崎安貞の「農業全書」の刊行に協力し、序文を書く。

1695年(66才) 「花譜」刊行する。

1700年(71才) 藩公務を引退する。

1703年(74才) 「筑前國続風土記」を四代藩主・黒田綱政に献上する。

1704年(75才) 「菜譜」を刊行する。

1709年(80才) 「大和本草」を刊行する。

1710年(81才) 「和俗童子訓」を執筆する。

1713年(84才) 「養生訓」を刊行する。妻の東軒、死去。

1714年(85才) 死去。墓は中央区今川にある曹洞宗金龍寺。

 1716年 「女大学」が刊行される。




■著作について


【黒田家譜】
「黒田家譜」は他の著作と違い益軒が40代の若き頃に藩の命令で書かれたものです。 そう言った事情より「黒田家を美化するため多くの脚色がなされている。」との指摘もあるのですが、 その検証をする事がなかなか難しいようです。その理由は、「黒田家譜」は訳本も含めて現在出版はされていないようで、 また古本としても数わずかなものが高額で取引されている状況があり多くの人の手が届かないからではと思われます。 現状として「黒田家譜」を参照した史家や作家の文章からその内容を推し量るしかないのが非常に残念です。


【筑前國続風土記】

  貝原益軒「筑前国続風土記」   ‥‥‥ 自らの足で筑前各地の旧跡を訪ね古老に聞く

当サイトにて引用した話
「朝倉橘広庭宮」はどこ? ‥‥‥ 斉明天皇崩御の地
「濡れ衣」の語源は博多にあり ‥‥‥ 悲しくも空しい話
学校院跡 ‥‥‥ 大宰府の教育機関
筑前にも超能力者がいた? ‥‥‥ 山伏・火亂の話
針目城落城の原因 ‥‥‥ 大友氏の手に落ちた秋月氏の城
日吉神社 ‥‥‥ 秀吉が陣を置いた神社
万葉歌の意外な解釈 ‥‥‥ 「御笠の森」の逸話
栗山大善 ‥‥‥ 大洪水が起こった話



【大和本草】
シーボルトが益軒の事を「日本のアリストテレス」と評したのは、その著作群に対する敬意の現われに違いないのですが、 当時、日本の動植物の資料を収集していたシーボルトにとってこの「大和本草」や「花譜」「菜譜」、 「筑前國続風土記 巻之二十九 巻之三十」などは、仕事を捗らすためにもってこいの著作物だったに違いなく、 このような事情が益軒の絶賛につながったのかもしれません。 ただ、先進国から学識を広めるためにやってきたシーボルトは、自分がなさなければならない任務の一部を 100年以上前に日本の学者がもう既にやってしまっていたことに驚きを隠せなかったという面もあったのでしょう。 「日本のアリストテレス」という評価は偽りのない言葉なのかもしれません。


【養生訓】
83歳で、それまで記述しておいた文章を整理まとめて書いた本です。 題名の通り、養生を促すための書物で、健康を維持し長生きをするための秘訣が語られています。 また健康に関することだけではなく、人生を生きて行く上での「考え方」、「気の持ち方」など、 年齢層に関わることなく役立ちそうな事が多数書かれています。
そして、この本の「後記」に益軒は次の通り記しています。
「この書は先人の言葉の意図するところを解り易く、誤りなく伝えるものである。 先輩方から聞いた話も多く収録し、自分で試して成果があったものは憶説になるかもしれないが記載した。 この通りこの本は養生の大綱である。 もし保養の道に志がある人はその他の多くの古人の書を読んで知識を高める事が大事である・・・」
この「養生訓」を刊行した同年に益軒を支え続けた妻・東軒が死去、自身もその翌年に妻の後を追う様に亡くなります。 85歳という大往生でした。


【女大学】
この本については、現代ではなかなか語り辛いところなので、 内容を知りたい方はネットでそのまま「女大学」でググってみてください。 福沢諭吉先生は「新女大学」という論を書いて、益軒先生の「女大学」を批判しているようですが、 私としては全否定はどんなものなのだろうかという、歯切れの悪い心持ちも無きにしも非ずなのですが・・・・・
ところで、この本は益軒先生の死去後2年経って刊行されています。この刊行 自体が益軒先生の意思なのかどうか不明なのです。 もし益軒先生はこの本を「門外不出」と考えていたのであれば、先生自身がたいへん困惑しているのかもしれません。




■先生に思う事


【読書量について】
益軒の著作には参照した古書の名が多数登場します。これは益軒が相当な量の読書をこなした証なのかもしれません。 またこれだけの古書の名が次から次に出てくるのは、ただならぬ記憶力の高さか、 もしくは「読書目録速見表」的なものを個人的に作成所持し執筆の際に座右に置いていたのかもしれません。


【簡単で読みやすい文章】
昔は男たるもの正式文書にかな文字を遣うべからずと言った風潮があったようで、 平安時代の『土佐日記』も紀貫之が女性に扮してかな文字日記を記載したものと、高校の古典の授業で教えられた記憶があります。 ただ手紙や歌には男性もかな文字を使用していたようなので、この知識が正しいのかは定かではありません。
江戸時代のかな文字文と漢文の使用頻度の詳細は解りませんが、 益軒の著作は、かな文字文章で書かれ理解しやすく、古文に通じていない人でも、 だいたいどんな主旨が書かれているのか把握できる内容になっています。 これは、自分の得た知識を階層を問わず、出来るだけ広く多くの人々に伝えたかったからなのでしょう。 どんな高度な理論でも、どんなに重要な情報でも、伝えるための文章が難しく理解しがたい内容であれば、 幅広く受け入れられることなく、歴史の彼方に消え去る可能性が高いことを益軒はよく解っていたに違いありません。 このサイトでも多くの話を参照、引用できたのは簡潔で解り易い文章を心がけてくれた先生の心遣いのお陰なのです。




■人物伝

貝原益軒(1630~1714年)



黒田如水(1546~1604年)
黒田長政(1568~1623年)
栗山大善(1591~1652年)
黒田忠之(1602~1654年)
宮崎安貞(1623~1697年)
シーボルト(1796~1886年)



飯塚市八木山の「貝原益軒先生学習地」の碑




■その他関連する事

益軒は損軒だった! ‥‥‥ 益軒先生の号について

「貝原益軒先生学習地」の碑 ‥‥‥ 少年期滞在の地


































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