■意外な話■



【徐福伝説は福岡にもあった?】(BC210年頃) -天山の童男丱女岩-

天山(あまやま)
徐福は秦の始皇帝より「延年益寿」の薬を探すように命を受け、若い男女3000人と五穀の種、工匠たちを引きつれ出航し蓬萊山へ向かうが、その後、徐福は広い土地を得て王となり始皇帝の元に戻ってくる事はなかった。
これが司馬遷の書いた「史記」に載る徐福伝説の概要で、今から2200年以上昔の事になります。

この徐福の得た土地というのが、日本の何処かに違いないと「史記」を読んだ後世の日本の人々は考え、徐福伝説は日本各地に残る事となったのかもしれません。九州では佐賀の金立山や鹿児島の串木野が有名なようですが、福岡にも徐福伝説の痕跡が残っています。

貝原益軒は「筑前国続風土記」の御笠郡天山(あまやま)の項で次のように記述しています。
天山の西方寺(筑紫野市に現存する寺)の上に重なり合う岩石群がある。この場所を里の人々は「童男丱女(どうなんかんじょ)」の旧跡と言うが、その謂われは老人にも知る者はいない。「童男丱女」は中国・秦の時代に徐福が蓬莱に渡った際、連れて行った男女のこども達の事である。

「童男丱女」は「史記」に記されるものではなく、唐代の詩人・白楽天の徐福伝説を詠った漢詩にある言葉のようです。「蓬萊山も見つからず童男丱女は船の中で年老いてしまったのだろうか」といった感じでしょうか・・・

益軒は御笠郡天山の項を次の通り締めています。
童男丱女の岩と言う所が、筑後国河崎(八女市)の里にも、丹後の海辺にもある。これは強引にこじつけて命名したものであろう。



益軒の結論は現実的だとは思われるのですが、時の権力者・始皇帝を手玉に取った徐福の向かった先は大陸から遠く離れた島国の可能性が高く、それが対馬や壱岐や種子島、奄美、沖縄の可能性もある訳で、「日本本土では?」との説もまんざら夢物語ではないのかも知れません。




【福岡にも長城があった!】(664年) -グーグルアースでも見れる「水城」跡-

中央やや左側に斜めに走る森が水城跡です
664年、白村江の戦いで敗れた中大兄皇子は、唐、新羅の連合軍の反撃となる九州進攻に備え、博多の那の津にあった大宰府(官家)を現在の位置に移し、その防衛線として四王寺山から那珂川方面まで土塁城壁を築きました。土塁の外側(博多湾側)には濠を堀り水を引きましたが、 この水濠が「水城」と呼ばれる理由のようです。また長さは10キロ程の長さがあったと思われ、現在でもYahoo地図、グーグールマップ、グーグルアースなどの航空写真でこの「水城」跡の一部が確認できます。
幸いに唐、新羅の連合軍の九州進攻はなくこの時「水城」は役に立つことはありませんでしたが、この時代より約500年後の1回目の元寇「文永の役」では蒙古軍に不利な戦いを強いられた武士団が「水城」まで撤退して態勢を立て直したといわれています。




【起きたら家が動いてた!?】(687年) -筑紫の大地震-

天武天皇の時代の687年12月ある夜半、筑紫で大地震が起こります。地面には6m程の幅で1km近くに渡って亀裂が入り、多くの民家が被災しました。
丘の上にあったある農家は丘が崩れ、家が大きくずれ落ちるものの、家屋はまったく壊れず、翌朝になって一家の人々は家が移動していることに気づいて驚愕したと「日本書紀」に書かれています。




【もう一つの都】(古墳~奈良) -豊津とその周辺の史跡-

豊前国府中門跡
福岡の古都といえば誰もが大宰府を思い浮かべるに違いないのですが、福岡にはもう一つの古都が存在します。 それが京都郡みやこ町・豊津とその周辺の地域になります。ここには豊前国分寺や豊前国府跡、船迫窯跡(築上町)、御所ケ谷神籠石(行橋市)などの史跡があり、この施設が大宰府に残る史跡と同じ役割を持つ事に注目できます。

豊前国分寺 → 筑前国分寺
豊前国府跡 → 大宰府政庁
船迫窯跡 → 国分瓦窯跡
御所ケ谷神籠石 → 大野城

豊前国分寺三重塔
この地域は日本書紀に景行天皇が九州平定の足場とした場所と記載され、戦国時代に黒田官兵衛が居城とした馬ケ岳城跡が残ります。また幕末には長州藩に小倉を追われた小笠原藩が藩庁を置いた場所で、「秋月の乱」でも戦いの場となっています。この様に豊津とその周辺は歴史的に非常に重要な意味を持つ地に間違いないようです。
因みに日本書紀には「熊襲と戦うため豊前に着いた景行天皇が長峡(行橋市長尾)に行宮(かりのみや)を建てた。そこを名づけて京(みやこ)と呼ぶようになった。」といった事が書かれています。




【太宰府天満宮の由来】(903年) -天満宮の牛の像はなぜ座り込んでるの?-

境内にある座り込んだ牛の像
大宰府へ左遷された2年後の903年、道真公は失意の中、病のため死去します。 門弟の味酒安行(うまさけのやすゆき)が遺骸を牛車に乗せて運んでいると、車を曳く牛が急に座り込んで動かなくなりました。 これは道真公の意思であるということで、遺骸はこの地に埋葬されました。 太宰府天満宮の境内にある牛の像が座像であるのはこの逸話が元になっています。 そして2年後の905年味酒安行はそこに祠廟を創建します。 その後、京都では天変地異が起こり、政敵やその血縁者が病死したり、雷に打たれて死亡する事故が起こりました。朝廷では道真公の祟りではとおののき、919年その地に社殿を建立しました。これが現在の太宰府天満宮の起源となっています。
余談になりますが、観光地として有名な「太宰府天満宮」と歴史書に登場する「大宰府(政庁)」は別のものです。 ここでも書いたように「太宰府天満宮」は道真公を埋葬した場所に建てられた道真公を奉る社殿で、「大宰府(政庁)」は九州を治める政治庁舎のことです。別名「都府楼」とも呼ばれ、天満宮より西方に1キロほど離れた場所に礎石のみが残っています。




【博多の人魚伝説】(1222年) -消えてなくなった人魚塚-

大博通りの「博多古絵図」
博多冷泉町にある竜宮寺には人魚の物と言われる骨が安置され、「人魚伝説」が伝えられています。
鎌倉時代の1222年、博多津(冷泉津)で150m(異説あり)に近い巨大な人魚が捕らえられ、櫛田神社に近い浜辺(現在の中洲東側の博多川辺り)に引き上げられたと言われます。その遺骸は近くの寺に埋葬されその寺は竜宮寺と改められました。そして埋葬された跡には人魚塚の碑が建てられますが、人魚は不老長寿に霊験あらたかと考えた参拝者によって少しずつ削り取られその碑は原形を留めなかったと言われています。現在の竜宮寺は戦国末期に当地に移築され、境内に建つ人魚塚は1958年に再建されたものになります。
この人魚に関しては、おそらく鯨ではないかとの想像もできるのですが、アニメ・ワンピースに登場する「しらほし姫」を想像した方が夢があっておもしいのかもしれません。

因みに応仁の乱が収まった2年後、室町時代の連歌師・宗祇は筑紫を旅した事を「筑紫道記」に記しています。その際、博多では竜宮寺に滞在しますが、「人魚伝説」を「筑紫道記」に記すことはなかったようです。


画像は大博通りに置かれている「博多古絵図」の一部です。中央には「人魚此辺ヨリ上ルト云フ」と記されています。この「博多古絵図」巻物の原本は聖福寺に所蔵されています。




【文永の役に神風は吹いたか?】(1274年) -元軍が消えた理由は?-

箱崎宮の「蒙古碇石(元軍軍船のいかり)」
1274年10月19日に博多湾に押し寄せた元軍は10月20日に百道、博多、箱崎と各地で暴れまわりますが、翌21日には博多湾より消え去ります。 この「文永の役」での元軍の撤退に関しては色々な説がありますが、現在では「神風が吹いた」という説は確率的に低いというのが通説になっているようです。 個人的な想像になりますが、始めから元軍は九州の占領の意思がなく、ある程度の戦果が上がれば撤退と決まっていたのかもしれません。 たとえ3万の軍があっても、大陸からの援軍は見込めず、「20日の戦い」で矢も尽き、占領どころか長期戦はとても無理な状況だったはずです。 そして一番大きかったのが兵糧の問題で、それが元軍を内陸部に侵攻させなかった理由だったのではないでしょうか。この事は元軍自身も出兵前から予想していたでしょうし、当然、日本軍も国内の兵糧をみすみす敵軍に手渡すことのないよう、手はずを整えていた事でしょう。そして時期的にも旧暦の10月といえば稲田も刈り取り済みのはずで、穀類はまとめられていたものと思われ、非常時の際、火を付ければ元軍の手に渡ることもなかったでしょう。そのことから逆に「弘安の役」は旧暦6月の来寇で当初より上陸目的で、刈入れ前の穀倉地帯を先ず占領する計画だったのではないかと想像されます。 ちなみに江南軍(元に降伏した南宋の兵で組織された軍)の船には大量の農機具が積み込まれていたといわれています。




【「大刀洗」地名の由来】(1358年) -「関ヶ原」に並ぶ大合戦「筑後川の戦い」-

当時の様子がうかがえる1990年代の大刀洗川
1358年「関ヶ原の戦い」「川中島の戦い」と並び称せられる「筑後川の戦い」が起こります。 少弐、大友を中心とする北朝軍と懐良親王、菊池を中心とする南朝軍が筑後川の北側で激突します。 戦いは南朝軍有利で終わりますが、死傷者は北朝軍18,000人、南朝軍6,900人といわれ、戦いの壮絶さは「関ヶ原の戦い」「川中島の戦い」も到底及ばないものでした。戦いの終わった菊池武光の軍が、近くの小川で血のついた刀を洗うと川は真っ赤に染まったといわれています。 これが三井郡大刀洗町の地名由来になります。 この地には江戸時代に「日本外史」で勤皇の志士たちに多大な影響を与えた頼山陽も訪れ、詩を詠んでいます。




【なぬ!!「ういろう」の元祖は?】(室町時代) -妙楽寺「ういろう」の碑-

妙楽寺・ういろう伝来之地の碑
「ういろう」の本場と言えば名古屋、小田原、京都、山口、九州では宮崎などいろんな説があるようですが、なんと「ういろう」の元祖は博多の妙楽寺にありました。妙楽寺の境内には「ういろう伝来之地」の碑が建っています。案内板が置かれていないので詳しいところは判らないのですが、中国の元の時代末の○○下郎(ういろう)という役職の役人が博多に移り住み、妙楽寺で「ういろう」いう薬を売り出したのが始まりとの説があるようです。ただ現在、博多で「ういろう」的な食感のお土産はお目にかかった事はなく(知らないだけかもしれませんが)遠い昔に「ういろう本場の地」候補から脱落してしまったのかもしれません。




【万葉歌の意外な解釈】(1703年) -御笠の森に関する逸話-

大野城市山田の「御笠の森」
思はぬをおもふといはば大野なる美笠の森の神ししるらん

この歌は奈良時代に大宰大監(筑紫の警察長官)であった大伴百代(おおともももよ)の詠んだ万葉歌で、一般的に次のような解釈がされています。

「愛してもいないのに愛していると言えば美(御)笠の森の神も罰を下すでしょう。(けれども私は心から愛しているので神を恐れることはありません。)」

しかし貝原益軒は「筑前国続風土記」の「御笠森」の項でちょっと違った次のような解釈をしています。
以前、御笠の森には神功皇后の社があり毎年 大晦日には村中の女たちがこの社に籠もって一夜を過ごす風習がありました。 ある時期にこの社の近くに品行の良くない乱暴な若者が住んでいたため、村人たちは女だけで一夜を過ごすこの行事を心配します。 想像ですがこの乱暴な若者はきっとイケメンだったのかもしれません。ある女性の夫は「あの男には注意するように」くどく言い聞かせます。 この時の女性の気持ちを大伴百代が詠んだのがこの歌である言う解釈です。

「あんな乱暴な男のことなど少しも想っていないのにあなたは心配ばかり、私の本心は美(御)笠の森の神様がよく知っておられることでしょう。」

「万葉集」も「筑前国続風土記」も古文とはなかなか難しいのですが、口語訳するとこんな意味になるのでしょうか?
ただ高い位にある男性が一般住民の嫁の心情を歌に詠むとはちょっと理解し難く、もしかしたら益軒は大伴百代を御笠の森の近くに住む一般女性と勘違いしていたのかもしれません。 (原文には作者を大宰大監 大伴百代と明記してあるのでこれも考えにくいのですが・・・)


大伴百代の歌の下の句の「神ししるらん」は「筑前国続風土記」に記載される内容で、「万葉集」では「神ししらさむ」となっています。 また「神し」とは目に見えない神ではなく偶像的な神で御笠の森の社に祀られていた「御神体」または「社」そのものの事だと思われます。




【筑後川の鵜飼の事】(明暦以前) -昔は瓢箪で鵜飼?-

江戸時代の初期頃までの筑後川の鵜飼漁は船は使わず泳いで漁を行っていたようです。

「江戸時代の初期頃までは漁師は大きな瓢箪を背につけてよりかかり、水にうかんで、右の手にススキの松明を持ち、左の手で2~5羽の鵜に縄をつけて操り、川の流れに乗りながら漁を行った。現在の鵜飼船では漁師が二人乗り、一人がとも(船の後方)で棹をさし、もう一人がかがり火で川底を照らして鵜を放つと、おのおのの鵜がハヤを捕らえた。鵜の首にはたなわと言うものを着け、その縄の先を指の間にはさみ多数の鵜が上下左右に入り乱れても、縄は乱れて絡むことがない。これは誠に奇功なる技である。」

これは「筑前国続風土記」巻十一 下座郡 長田 の項に書かれている鵜飼の概要になります。
福岡の奥座敷・原鶴温泉では5月末~9月末に鵜飼漁が行われています。こちらは鵜飼船による漁になりますが、瓢箪での漁も再現できれば観光資源となると思われるのですが、鵜縄が足に絡むと事故につながるので想像に止めて置いた方が良さそうです。




【筑前のUMA】(1809年) -放火し味噌を食い荒らす奇獣「だつ」-

庄林半助が箱曲物屋を営んだ中
洲北端に位置する「中洲中島町」
「金印」や「日本号」を所蔵する福岡市博物館には明治初期に書かれた「旧稀集(きゅうきしゅう)」という書物が所蔵されています。 この本は博多中洲の庄林半助という箱曲物細工師(弁当箱や柄杓などの職人)の親方によって書かれた江戸時代後期の見聞集で、好奇心をそそる事件や噂話などが数多く載せられています。その中に「1809年、山家宿で『だつ』という化け物が出没した。」という話が取り上げられているのです。 「だつ」は留守の民家に忍び込み火を付けたり、味噌を食い荒らしたりします。 そんな事が数ヶ月続いたため、藩の役人も動きますが結局なんの手がかりももなく事は収束したという事です。

それから十数年後、福岡藩第十代藩主・黒田斉清は長崎オランダ商館に博物学者のシーボルトを訪ねた際に、この「だつ」の事を次のように話しています。 「1813年(「旧稀集」と相違があり)の頃に山家駅に奇獣が現れ、食べ物を掠め、火を放つ騒動が数ヶ月続きました。しかしその獣の姿を見た者はなく、ただ足跡が残るのみで、床下でもその歩幅は1.5m程もあり、また狭い窓からも出入りしているため体の大きさを推し測る事ができませんでした。ある時、信石(砒素)を入れた柿を置いてみましたが、信石の入っていない柿だけを選んで食べ、信石入りの方は残されていました。その後、色々と手立てを講じますが、とうとう捕獲することはできませんでした。 今、長崎にはオラウータンという動物が連れて来られているようですが、オラウータンとその獣の足型は似ているとのことです。オラウータンとその獣の関連性はあるのでしょうか?」

筑紫野市山家の旧長崎街道沿いに残る
「山家宿西構口(かまえぐち)」土塀
これに対しシーボルトは「オラウータンはボルネオに住んでおり、無知で、気性もやさしく、ずるがしこくもありません。 その獣がオラウータンでないのは間違いないでしょう。」と答えています。 この問答はこの場に同席した安部龍平の書いた「下問雑戴(かもんざっさい)」という書物に記載されています。 こちらの書物は福岡県立図書館に所蔵されているようです。




【巌流島は豊前領だった!】(江戸時代) -現在の島の住人は?-

巌流島の住人?
宮本武蔵と佐々木小次郎が対決した巌流島は山口県の観光名所として有名ですが、江戸時代は豊前小倉藩の領地だったということです。これは「関ヶ原の戦い」で敗れ徳川家より本州の西の片隅に押し込められて不満を持つ毛利家を牽制するため方策だと想像されるのですが、実際のところはどうなのでしょうか・・・。
ところでこの巌流島は東西に250m、南北に500m程の小さな無人島で、現在では北東部の半分が公園として整備されています。そしてこの小さな公園にはなんと意外な事に野生のタヌキが住み着いているのです。ずっと以前に私もこの噂を耳にしていたのですが、まさか僅かばかりの土地しかない無人島に野生のタヌキが生息できるはずがないと高を括っていました。しかし数年前に観光でこの島に渡った時に渡船場の近くの小さな木立の中から可愛い子ダヌキが顔を出しているのを発見しました。そのつぶらな瞳で見つめられるとなんで袋菓子でも持って来なかったのか非常に後悔した覚えがあります。もし巌流島観光の予定がある方は、ぜひ船に乗り込む前にコンビニでエサとなるものを購入しておく事をお勧めします。子ダヌキに確実に会えるかはわかりませんが・・・。
子ダヌキ兄弟
また案内板によるとこの巌流島では坂本龍馬とお龍が花火を打ち上げて楽しんだという逸話も残っているようです。
先ほども書いたように巌流島は島全体を一望できる程の小ささなのですが、この様に見どころ満載の観光名所となっています。






■意外な人物伝■



【「白村江の戦い」の帰還兵・博麻】(690年) -自らを売った兵士-

大伴部博麻(おおともべのはかま)は現在の八女市上陽町の出身で663年の「白村江の戦い」に出征し、唐軍の捕虜となります。
翌年には土師富杼(はじのほど)ら4名が唐人の計画を朝廷に知らせようと帰国を考えますが、その費用がありません。そこで博麻は「自分も一緒に帰国したいが、費用がなければ仕方ありません。私を売って費用を捻出してください」と願い出ます。土師富杼らは博麻の提案に従い、帰国を果たしました。
その26年後の690年には、博麻は新羅の使者に付き添われてようやく帰国することが叶います。
持統天皇は博麻を招き30年近くにも及ぶ苦労を労(ねぎら)い、綿や布、稲などの他に水田を送りその功を称えました。


これは日本書紀の持統4年の項に記載されている出来事です。
「白村江の戦い」敗戦の翌年、帰国が叶った4名は「筑紫君」「連」など皇族であったり姓を持っているので位の高い人と思われ、おそらく博麻は土師富杼の部下であったと想像されます。




【上杉鷹山の祖は筑前人?】(941年) -大蔵春実、「藤原純友の乱」を鎮圧す-

秋月城の碑
「なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」
(「やればできる。やらないと事は成せない。やれないのはその人がやれないのではなく、やらないからだ。」)

と言ったのは、江戸時代中頃に財政破綻寸前の米沢藩を苦難の末に立て直した上杉鷹山(うえすぎようざん)ですが、意外な事にこの鷹山の祖は筑前に勢力を張った時期がありました。
話は800年ほど遡り平安時代の「藤原純友の乱」の時になります。 瀬戸内海で海賊行為を行い暴れ回った純友は、朝廷より派遣された討伐軍に伊予の本拠地を攻略されると海路筑紫へ逃れ大宰府を奪います。 これに対し朝廷は討伐軍を差し向けますが、この時に討伐に向かったのが大蔵春実(おおくらはるざね)です。 乱はほどなく鎮圧され春実は博多湾で藤原純友の軍船を奪い取り武功を上げ、そのまま大宰大監(だざいだいかん)に就任します。
そして春実の子孫は大宰府の南の原田に居を構え原田氏を名乗り大宰府の官職を歴任しました。しかし、源平合戦の頃に平家方に味方し、鎌倉幕府が成立すると領地を没収されます。 後に許され原田氏は怡土郡(いとぐん)と秋月に領地を得、秋月に移った分家の原田氏は秋月氏を名乗り戦国時代まで領地を守ります。 戦国時代の「休松の戦い」では寡兵で大友宗麟配下の猛将・戸次鑑連(べっきあきつら。のちの立花道雪)が率いる大軍に一泡吹かせますが、戦国末期には豊臣秀吉と対立して九州制覇を目指す島津軍側に従ったため、秀吉の九州平定後に日向串間(後に高鍋へ移る)に転封されました。
それから200年後、この高鍋秋月藩の第6代藩主秋月種美(あきづきたねみ)の次男として生まれた松三郎が養子として米沢藩に入り第9代藩主上杉治憲(鷹山)となるのです。

余談ですがこの秋月氏、南北朝の時代には「多々良浜の戦い」で足利尊氏に敗れ、「筑後川の戦い」では少弐頼尚に従い不利な状況で戦いは終わります。 これだけ源平時代、南北朝時代、戦国時代と敗れた側につきながら、明治維新まで生き残った氏族は珍しいのかもしれません。しかし、この逆境に対する強さが鷹山にも遺伝し大改革の源となったのかもしれません。

ところで、改革者としての鷹山の実績は広く高く評価され現在、様々な書籍が出版されています。またケネディ米大統領がもっとも尊敬できる日本人に鷹山を挙げたという逸話があり。 その逸話の真偽の論争が下火にならないのも、鷹山に興味を持つ人があまりにも多いからではないでしょうか?


冒頭の「なせば成る」は武田信玄の「なせば成る なさねば成らぬ 成る業を 成らぬと捨つる 人のはかなさ」の言葉を引用修正したものらしいのですが、逆に海軍大将山本五十六の残した「やってみせ 言って聞かせて やらせみて ほめてやらねば 人は動かじ」の言葉は 鷹山の「してみせて 言って聞かせて させてみる」に言葉を加えたものといわれています。
現在の停滞した日本社会。もう一度、先人たちの考えや行動を見直してみる時期に来ているのかもしれません。




【「刀伊の海賊」を撃退した男】(1019年) -暴れん坊中納言・藤原隆家-

「東(あづま)男に京女」なんて言葉がありますが粗野粗暴のイメージは東男だけの特権ではないようで、意外なことに平安時代の京男にも結構な豪傑がいたようです。
その人の名を藤原隆家といいます。父親は朝廷№1の実力者、姉は天皇の中宮(第一婦人)という名門ゆえに、十代半ばにはやりたい放題を繰り返します。たとえば花山法皇との確執からひと悶着起こし、とうとう最後には法皇の袖を矢で射抜いてしまいます。 若気の至りとはいえ相手は前天皇ですのでただでは済まされず、出雲に配流の身となります(長徳の変、996年)。この乱暴狼藉、もし尊皇攘夷の嵐が吹き荒れる幕末ならば大変な事になっていたかったかもしれませんが、この頃は藤原氏全盛期の貴族の時代、翌年には許され京都に戻ることができました。

ただこの人は粗野粗暴だけの人物ではなく、洒落もわかる豪放磊落の人だったようで清少納言の「枕草子」にもその人柄が描かれています。
ある日、清少納言の仕える中宮定子(ちゅうぐうていし、一条天皇の后で隆家の実姉)のところに隆家がやって来て「世にも珍しい扇の骨が手に入りましたので姉上に献上したく参りましたが、世にふたつと無い扇の骨なので今のところ、その骨に合う紙が見つからないのです。」と残念がります。これを傍らから聞いていた清少納言が「そんなに珍しいのならば、それは扇の骨ではなくクラゲの骨ではないのですか?」と冗談をいうと、隆家は「その洒落は私が言ったことにしよう!」と言って大笑いしたという内容なのですが、今で言うなら、さんま師匠の言葉を借りて「そのネタ、モロとこ」もしくは「それオモロっ、メモっとこ」といったところでしょうか。

ところで京都に戻った隆家は、父に取って代わって朝廷の実力者となった叔父との確執に嫌気が差し、三十代半ばの頃に九州大宰府へ大宰権帥(だざいごんのそつ、大宰府長官)として赴任します。 そしてその5年後の1019年、突然「刀伊(女真族)」の海賊が博多湾に現れ早良や能古島を襲い、略奪を繰り返します。大宰府長官の隆家は「ワシの出番や!」とばかりに兵をかき集め、箱崎に上陸し暴れまわる刀伊の海賊を急襲、奮戦し撃退する活躍をしたといわれています。




【落武者尊氏、筑前で復活!】(1336年) -多々良浜の戦いは多勢に無勢?-

東区・多々良川(多々良浜)
後醍醐天皇軍との戦いで形勢不利となった足利尊氏は一旦京都から落ち九州へ向かいます。 1336年2月下旬に九州に入りますが、それも束の間3月2日には、肥後から攻め上ってきた天皇方の菊池・阿蘇軍と博多東方の多々良浜で戦うことになります。 尊氏は九州に上陸して日も浅かったため兵を集めることもできず、少弐、宗像、大友の軍を併せても1万に満たなかったと想像されます(距離の関係より豊後大友の援軍は間に合ったと思われますが)。 これに対し天皇方の兵力は3万とも6万ともいわれています。 緒戦は菊池・阿蘇軍が有利でしたが、天皇方には戦闘に参加しない勢力が多数あり、また風向きが変わり砂埃を菊池・阿蘇軍に巻上げたため、形勢が逆転します。 そして宮方には寝返る勢力も出たため勝敗は決し、菊池・阿蘇軍は南へ退却します。勝利した尊氏は大宰府の原山一坊に入り京都奪還の準備を始めます。
この戦いで戦闘に参加しなかった勢力や寝返った勢力が多く出たのは、後醍醐天皇の「建武の新政」に対する武士階層の不満不安が原因といわれています。


余談になりますが、九州には武家派の豪族は少弐氏以外に薩摩の島津氏、豊後の大友氏や肥前の千葉氏、南肥後の相良氏などの他、多数いたと思われます。 しかし、菊池・阿蘇軍の博多侵攻が早過ぎたため、多々良浜の戦いに間に合わなかったり、西方または南方から駆けつけた豪族は 尊氏軍と自軍の間に南朝軍を置く形になったので、立場を決めかね形式上南朝派を表明していたのかもしれません。




【日本国王・良懐とは誰?】(1370年) -明の抗議に応対した親王-

小郡市大中臣神社の将軍藤
時は南北朝の時代、後醍醐天皇の皇子・懐良親王(かねながしんのう)は菊池武光の支援を得て1361年に大宰府を奪い、九州の北朝勢力をほぼ制圧します。 この懐良親王、菊池武光の活躍に隠れてなかなか人間性が見えてこないのですが、明の史書「明史」には親王の人間性が鮮やかに描かれています。
倭寇に手を焼いた明の洪武帝(こうぶてい)は趙秩(ちょうちつ)という者を抗議の使者として日本へ送ります。 趙秩は日本が明に服従しないことを咎める内容の国書を持参しますが、これに応対した懐良親王は「元寇」を引き合いに出し「貴殿は元(げん)の使者の趙良弼(ちょうりょうひつ)と同じ苗字だが、もしかして蒙古の子孫ではないのか?良弼と同じようにたぶらかし我が国を攻めるつもりであろう」と左右の者に目配せして趙秩を斬らせようとしますが、趙秩は動じる事なく「明国を蒙古などと同じくするな、私も蒙古の子孫などでない。斬りたくば斬れ」と返します。 懐良親王はこの態度に気がくじけ(この時は始めから斬るつもりではなかったと個人的には思うのですが・・・)、高座より降り趙秩を招き入れ礼をもって待遇したといいます。 この「明史」に懐良親王は「日本国王・良懐(りょうかい)」として登場しています。


写真は「筑後川の戦い(大原合戦)」で勝利するものの、負傷した懐良親王が傷の全快に感謝して大中臣神社に植樹したと言われる「将軍藤」になります。




【筑前にも超能力者がいた?】(文明年間) -筑前に存在した幻術師・火亂-

「三国志演義」には于吉(うきつ)、華佗(かだ)、左慈(さじ)などの特殊な能力を持った人物が登場しますが、日本の戦国時代にも果心居士(かしんこじ)という不思議な能力を持った人物が現れ、信長や秀吉、家康といった時の人を翻弄したといわれています。この果心居士が実在の人物かどうかは読者の判断にお任せするしかないのですが、一説によるとこの人物は筑後の出身とする話があるようです。ところで博物学者の貝原益軒はこのような話にも興味があった様で「応仁の乱」が長引く文明(1469~1487)の時代、筑前別所村に火亂(からん)という山伏がいたことを「筑前国続風土記」で伝えています。
火亂は剣術の達人であり幻法(幻術)も身に着け、天性凶悪な性格で怪しげな行為を行ったため、所司(警察の長)はこれを討とうしますが、火亂はこの事を事前に察知し捕らえることができませんでした。そこで所司は火亂の弟子の式部という人物を招き火亂を討つよう依頼します。この対決では式部が火亂の右腕を打ち落としたことで勝負は決し、火亂は怒って「公命とはいえ、師を討つ罪は逃るべからず」と叫んだ後に討ち取られます。しかし その後、式部の親兄弟が様々な災いで亡くなったために式部は祟りを恐れ火亂の社を建立し祀りました。
貝原益軒はこの様に「火亂社」の謂(いわ)れを綴っています。




【野上一閑と三奈木弥平次】(1581年) -原鶴の一騎打ち-

大友氏が島津氏に大敗を喫した耳川の戦いから3年、筑後平野では秋月氏や龍造寺氏が弱体化する大友配下の諸城に攻めかかります。これに大友宗麟は救援の軍を送りますが、この兵の中に野上入道一閑という豪傑がおりました。貝原益軒は「筑前国続風土記」巻之二十五 古城古戦場二 原鶴 の項で一閑入道の事を次の通り描写しています。
「刃渡り3尺5寸白柄の長刀を莖短に持ち、秋月の兵をなぎ倒す事、草を刈るが如し」秋月の兵はこれに対抗しきれず300メートルほど兵を引きます。
しばらくして、秋月の陣より一騎の武者が飛び出し大友の陣に駆け寄り
「秋月の士、三奈木弥平次と申す。野上殿に会いに参った!」
と大声で呼びかけます。
そこに例の長刀を手にした野上一閑が現れ
「お相手申そう!!」
ふたりは馬上、原鶴の戦場を駆け巡り打ち合いますが、なかなか勝負がつかず最後は馬上の掴み合いとなり土ぼこりをあげて共に落馬します。そこに秋月種実の命で加勢に駆けつけた家臣が踊りかかり、さすがの豪傑・野上一閑も討ち取られてしまいす。
その直後に三奈木弥平次も加勢の家臣も大友の兵に囲まれ討たれる事となります。
この二人の誇り高き戦いを想像するに「北斗の拳」のラオウとケンシロウの戦いを思い浮かべずににはいられません。

この戦いの舞台となった原鶴は現在、福岡随一の温泉街となり観光客が憩いのひと時を過ごす場となっています。
「兵どもが夢の跡」そんな感じなのでしょうか・・・。




【明史・秀吉伝】(1592年) -中国から見た豊臣秀吉像-

神屋宗湛屋敷跡「豊国神社」
中国の清の時代に書かれた「明史」には豊臣秀吉の事が描写されていますが、概要は次の通りです。

日本国王の下に関白の信長という者がいた。信長はある日、鷹狩りに出かけたが、その時、木の下に寝転んでいた男が突然飛び起きて信長に猛進してきた。この男を捕らえて何事か問い詰めると、男が言うには「私は平秀吉という者で、薩摩人の奴隷である」と。体は丈夫ですばしっこく、その上に口先が達った。 信長はこれを面白がり、馬廻りの役に付け、「木下」と名を与えた。信長のためによく働き、後に二十余州を奪い大将となった。
信長は罪を犯した参謀の阿奇支(安芸・毛利氏と明智光秀を混同?)を秀吉に討たせるが、その信長自身が部下の明智に討たれてしまった。 変を聞いた秀吉は阿奇支を滅ぼした勢いで、取って返し明智を誅滅し、名を響かせた。そして1586年(1585年?)、信長の3人の子を廃し、自らが関白となった。
その後、秀吉は諸将の兵を引き連れ明を攻めようとしたが、その時、子供が死んで、兄弟もなかった(「自国を守らせる身内がいなかった」の意?)。 また、豊後の将(大友義統?)の妻を奪い妾とした。 諸将は秀吉の暴虐を怨み「この戦いの目的は明を攻めることではなく、我々の力を削ぐ事に違いない」と言った。 そして諸将の心もバラバラでまとまりがなかった。この様な事情で秀吉は自ら攻めて来ることはなかった。

以降にはその後の「朝鮮の役」の概要が載せられ、戦いの途中にして秀吉が死んだため倭の諸将は各々自国へ引き上げて行き、やっとゆっくり眠れる様になったと記されています。
ところで、この「明史」に記載される内容が、戦役の当時に日本から伝わった情報なのか、それとも江戸時代に書かれた創作を含む伝記が伝わったものなのか、興味深いところです。 もし前者であるならば、日本でも知られていない小さな真実がこの記事の中に埋もれているのかもしれません。

-参考・引用「倭国伝」(藤堂明保氏、竹田晃氏、影山輝國氏/講談社学術文庫)-




【益軒は損軒だった!】(1700年) -益軒先生の号について-

「貝原益軒屋敷跡」の碑
中央区荒戸
益軒先生は若き頃に藩主・黒田忠之より怒りを買い、浪人生活を送ります。 数年後に許され帰藩しそれから44年間、黒田藩に仕え「黒田家譜」を著し、また藩内の教育や施政に携わりますが、その間の号はなんと「損軒」だったというのです。 何故にして「損軒」なのか、その理由は残念ながら伝わっていないようです。
そして引退した先生は「益軒」と改め、「筑前国続風土記」を脱稿し四代藩主・黒田綱政に献上、本格的な執筆活動に入り「大和本草」、「和俗童子訓(わぞくどうじくん)」、「養生訓」 をはじめとする数多くの著作物を残すことになります。




【自由の気風の「亀井塾」】(1762年) -昭陽先生と生徒たち-

「亀井南冥昭陽両先生墓所」の碑 中央区地行・「浄満寺」門前
「漢委奴国王」の金印を鑑定した父・亀井南冥(なんめい)の後を継ぎ、私塾「亀井塾」を起した昭陽先生はある日、近隣・若者組の神事用・幟(のぼり)の揮毫(きごう)を快く引き受けますが、数日後、そのお礼にと塾へは酒が届けられます。 先生はその日の授業が終わると、さっそく生徒たち(元服済み)と「一杯やるか」と酒宴を開きます。陽はまだ高く、時は梅雨の上がった夏の入り、渇いた咽に清酒がしみる。「一杯、一杯、また一杯」詩仙の心がよくわかる。 ほろ酔い気分になってきた生徒たちは、いつもお世話になっている昭陽先生へ次から次に酒を勧めます。 その酌は「長篠の戦い」の鉄砲三段撃ちの如し、先生もかわいい生徒の杯を拒めずにゴックゴク、お開きの頃には悪酔い状態になってしまいます。 調子に乗った生徒たち、今度は先生を置いて近くの浜辺に海水浴へと繰り出します。 赤裸で戯れたその後は、各々、着物も着ず褌(ふんどし)はたたんで頭に載せて村道を堂々と帰宅の途につきました。
翌日、この醜態を聞き知った昭陽先生。「亀井塾は自由の気風と言えども、やり過ぎはよろしからず」と生徒の代表五名を呼び出し誓約書を書かせます。
その一節、「日頃からお世話になっているからと先生に呑ませ過ぎ、嘔吐させるまでに至り誠に申し訳なく思っております。私たち生徒一同は先生の健康を一途に願っております。どうかご察しください」
昭陽先生その誓約書(詫び状?)を朱墨で添削し「君らの気持ちはよく解った」と一件落着となりましたが、その後、生徒たちの酒癖が改まったかどうかは記録に残っていないようです。

-参考・引用「福岡歴史探検①近世福岡」(福岡地方史研究会/海鳥社)-




亀井昭陽は江戸中期の高名な儒学者で「日本外史」の頼山陽と交流を持っています。 また藩校「甘棠館」の廃校後は、私塾「亀井塾」を開き、そこでは日田に「咸宜園」を開いた広瀬淡窓が学んでいます。
ここで取り上げたのは福岡地方研究会の「福岡歴史探検」という本に記載されている話です。 話の中に出てきた「誓約書」は昭陽の息女の嫁ぎ先に代々伝えられ現存しているということですが、おそらく昭陽先生は生徒の代表五名の内の一人に娘を嫁がせたものと想像されます。 また生徒たちが海水浴を楽しんだのは現在のヤフオク(福岡)ドームの南側辺りにあった浜辺だと思われます。




【七卿落ちではなく五卿落ち?】(1863年) -五卿のその後-

「七卿落ちの碑」と「延寿王院門」
1863年「8月18日の政変」で会津薩摩の両藩に長州藩が京都を追われると、攘夷派の三条実美ら七卿も長州に落ち延びました。これが世に言う「七卿落ち」です。その後、七卿の一人、澤宣嘉は1863年10月「生野の変」に平野国臣と共に身を投じ、もう一人、錦小路頼徳は1864年6月長州にて病没します。残った五卿は、「禁門の変」、「第一次長州征伐」を経て、福岡黒田藩が預かることなり、長州より太宰府の延寿王院に移りました。この時、筑前勤皇党の月形洗蔵は五卿を下関まで出迎えに行っています。

■五卿のその後を簡単に記します。

三条実美右大臣、太政大臣、内大臣を勤め、一時的に内閣総理大臣を兼任する。

三条西季知大納言に復し、皇太后宮権大夫、参与を勤める。

四条隆謌戊辰戦争に従軍、陸軍陸軍少将、陸軍中将を経、元老院議官を勤める。

東久世通禧神奈川府知事、第二代開拓長官、岩倉使節団に随行、元老院副議長などを勤める。

壬生基修戊辰戦争に従軍、東京府知事、 元老院議官を勤める。



「七卿落ち」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2011年5月1日(日)10:45
http://ja.wikipedia.org/wiki/
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【望東尼の姫島脱出】(1866年) -高杉晋作の救出作戦-

平尾山荘 野村望東尼像
1865年の乙丑の獄で望東尼は、糸島半島の西約4キロの「姫島」に流されます。 山荘に匿ってもらった過去のある高杉晋作はこれを知ると望東尼の救出を画策します。 1866年9月に晋作の意を受けた福岡脱藩の志士等は望東尼を「姫島」より脱出させ、下関の豪商・白石正一郎宅に送ります。 ここで高杉晋作と望東尼は再会することになりますが、その7ヶ月後の1867年4月14日に晋作は結核のため死去します。 その時、望東尼は晋作の臨終を見届けたといわれています。そして望東尼も同年の11月6日に三田尻で没しました。享年62歳。




【新選組局長・近藤勇を狙った男】(1867年) -筑後の柔術家・篠原泰之進-

1867年11月18日、新選組は隊より離脱した御陵衛士(ごりょうえじ)の頭取・伊東甲子太郎とその同志三名を京都油小路で騙まし討ちにしますが、この報復として御陵衛士の生き残りは12月18日、京都・墨染で公務帰りの新選組局長・近藤勇を待ち伏せ狙撃し、左肩に重傷を負わせます。 子母沢寛は「新選組始末記」で、篠原泰之進の手記に「銃を撃ったのは自分である」と書かれている事を記事にしています。
篠原は筑後浮羽の出身で一時久留米藩士に仕えますが、その後、攘夷運動に走り関東を中心に活動したといわれます。 柔術を得意とし、横浜の奉行所に雇われていた時分に狼藉を働いた三人のイギリス人を縛り上げ海岸に捨て置いたという武勇伝を残しています。 そして新選組、在籍時には「諸士取調役兼監察」及び「柔術師範頭」という特別な役職に就いており、またその行動から伊東甲子太郎の右腕的な存在だった事が窺われます。

その後、流山(千葉)で官軍に捕らえられた近藤勇は江戸板橋で斬られ、篠原ら御陵衛士のメンバーは薩摩軍に属し戊辰戦争を戦って行くことになります。


「新選組始末記」には篠原の手記以外に「近藤勇狙撃事件で銃を撃ったのは自分と富山弥兵衛であり、篠原泰之進は槍で近藤を突く役目であった」といった阿部十郎の遺談も掲載されており、薩摩出身の富山弥兵衛が薩摩藩邸より持ち出した鉄砲を用いて元新選組・砲術師範頭であった阿部十郎が狙撃した・・・というこの流れの方が自然なのかもしれません。ただその場に篠原泰之進がいたことだけは間違いないようです。




【人参畑先生の事】(1877年) -男装の女医・高場乱-

人参畑塾(興志塾)跡
博多駅前四丁目
最近、テレビでは美形の女医さんが話題を振りまいているようですが、40年程前の九州では女性の医師はほぼ見受けることが無かった様な気がします。 しかし最近では女性も医学界で活躍するのが極普通な事になっているようで、私自身も、以前にチョットした不注意で指先を負傷し女医の先生のお世話になったことがありました。 その先生は知的で聡明そうな女性で、的確な説明と処置をしていただいた事が思い出されます。
ところで福岡では100年以上前に女医が登場します。この女性は高場乱(たかばおさむ)といい眼科医の家に生まれ、一家に嫡男がなかったため男子として育てられます。若き頃に亀井学派に学び一生涯、男装で過ごしたという人物です。維新期には現在の博多駅の南側にあった人参畑跡(福岡藩の朝鮮人参畑?)に「興志塾」という塾を開き後進の育成にも励みます。 その塾の所在地より地元の人々からは「人参畑先生」と呼ばれ、塾生には血気盛んで乱暴な若者も拒まず入門させたといわれます。 そして明治10年(1877年)には「西南戦争」の薩摩軍に呼応して起きた「福岡の変」に多くの塾生たちが参加したため、変の収束後に警察に呼び出され教育者として責任を厳しく問われます。語気を荒げる取調官に対し、乱(おさむ)は「教え子の罪が私の責任と言われるのならば潔く罪に服そう。ただ県民の罪は福岡県令の罪でもある。この私の首と、県令・渡辺清(元大村藩士。渡辺昇の兄)の首を並べて罪を償うべきであろう。」と逆に相手をやり込めたといわれます。
乱(おさむ)はそれ以上、罪を問われることなく帰され、そして「福岡の変」で生き残った塾生達はその後、政治活動に走り日本の政治に深く関わってゆく事になるのです。
以上が幕末から明治にかけて福岡に生きた女医・高場乱の話です。百数十年前に女医が存在したと言うのは意外な話ですが、実は女医の歴史はもっと古く、1300年程前、奈良時代の722年11月7日に「初めて女医の博士を置いた」と続日本紀(しょくにほんぎ)に書かれており、 女医は最近の職業という思い込みは間違いだったのかもしれません。

-参考・引用「福岡歴史探検①近世福岡」(福岡地方史研究会/海鳥社)-





【勝海舟の黒田長溥・評】(1930年頃) -蘭学の先駆だった福岡藩-

勝海舟は福岡藩第11代藩主・黒田長溥について氷川清話(講談社学術文庫)で次の通り語っています。

「幕府時代の大諸侯にして、最も早く外国の事に注意したるは黒田長溥公であつた。」

黒田長溥の蘭癖は流行に乗った他藩のまね事ではなく有力諸侯より先んじていたことが伺われます。

「同公は本草学を好み、シーボルトなどの古き説を信じて居た。」

本草学は黒田藩の真骨頂で藩士・貝原益軒の「大和本草」はシーボルトより絶賛されたといわれます。また長溥は義父の第10代藩主・黒田斉清のシーボルト訪問に同伴したといわれています。
「古き説を信じて居いた」という表現はシーボルトの時代の蘭学は幕末維新の頃には既に陳腐化していたと言う事なのでしょうか?

そして「蛮社の獄」の前後の事だと想像されるのですが、長溥は西洋かぶれを心配した保守派の家臣に諌められます。しかし、それらの意見を聞き入れることはなく逆に阿部龍、永井青崖などの家臣に蘭学を修めさせ西洋の地理や情勢を調べさせます。

「それは天保の前頃なりしが、その頃既に西洋の事に着眼せられたるは達識なるものである。」
と海舟は締めています。


談話に登場する永井青崖は福岡藩士で江戸藩邸に滞在中、海舟に蘭学を教授しています。また阿部龍は黒田斉清のシーボルト訪問に同席しその問答を「下問雑戴(かもんざっさい)」という書物に残した安部龍平の事だと思われます。「下問雑戴」には山家宿に現れた奇獣「だつ」の事をシーボルトに問う興味深い場面も記載されています。




【月形半平太って誰?】(1919年) -薩長同盟のもう一人の立役者、月形洗蔵-

月形洗蔵居宅跡 中央区赤坂
「月様雨が」
「春雨じゃ濡れて参ろう」


月形半平太は大正時代にヒットした舞台劇「月形半平太」の主人公の名前です。

この架空の志士のモデルは土佐の武市半平太らしいのですが、苗字の月形は福岡の志士、月形洗蔵よりとられたものではないかといわれています。 月形洗蔵は福岡藩での幽閉の時期が長く、志士として活動できたのが約1年と短かったためか、 幕末の志士としては広くは知られてはいないようです。しかし、その1年の間に五卿、長州の高杉晋作や薩摩の西郷隆盛、土佐の中岡慎太郎等と交流をもち、月形家には西郷の手紙が現存するそうです。 その行動と関係のあった志士から判断しても薩長同盟成立に深く関わったのは間違いなく、その活躍から考えてもっと注目されてもいい志士なのではと思われます。






■福岡悲話■



【「濡れ衣」の語源は博多にあり】(奈良時代) -悲しい話です-

博多区千代・「濡衣塚」
「藤原広嗣の乱」の前後の事だと思われますが、都より佐野近世(さのちかよ)という人が奥方と娘を伴い筑前の守として赴任して来ます。それからしばらくして奥方は亡くなり近世は地元の女性と再婚します。ところがこの女性、先妻の娘との関係が上手くいかなかったのか、 娘を亡き者にしようと策を巡らします。
そしてある日のまだ星の輝く早朝に、一人の若い漁師が近世の邸を訪れ「佐野様のお嬢様が最近、夜な夜な私の所へいらっしゃって釣り衣(つりぎぬ)をお持ち帰りになります」と訴えます。驚いた近世が娘の部屋に行ってみると、なんと娘は濡れた釣り衣を背中に掛けて眠っていました。このかた後妻と娘の板挟みにあい悶々としていた近世はとうとう怒り心頭に発し、即座に娘を手打ちにします。実はこの若い漁師、金品を受け取り後妻から言われたとおりに一芝居打っていたのです。そして釣り衣の方は娘の部屋に忍び込んだ後妻が寝入った娘に掛けたものだったのです。このようにして事は後妻の思い通りに運んだのですが、翌年のある日 娘が近世の夢に現れ次のような内容の歌を詠みます。

「私が脱ごう脱ごうとしている濡れ衣は、実は私を長い間 苦しめる 身に覚えのない罪のことなのですよ」

「濡れ衣の袖から落ちる雫は、身に覚えのない罪を洗い流すための私の涙なのですよ」

近世は娘に罪のない事を悟ると後妻を里に返し、自らは出家し松浦山(唐津・鏡山)に移り住んだという事です。



以上は貝原益軒の「筑前国続風土記」に記載されている「濡衣」の内容です。 現在、国道3号線と昭和通りの交わる石堂大橋の近くに「濡れ衣塚」という史跡が残されています。




【針目城落城の原因】(1581年) -自らの行いで破滅した城番-

大友宗麟が「耳川の戦い」で島津軍に大敗すると筑前東南部では秋月種実が宗麟に対し叛旗を翻します。 種実は大友勢の抑止のため筑前と豊後との境界地帯の穂坂(原鶴温泉の東方)に針目城を築き、初山九兵衛という人物を城番とします。 ところがこの武将、女癖が悪かった様で、我が部下の高久保彦次郎という者の容姿端麗な妻に手を出してしまいます。 数ヵ月後、この事を聞き知った九兵衛の奥方は嫉妬心から怒りが収まらず、七夕の行事で部下の妻たちを集めると、ひとり一人に言葉を掛け定例の酌をします。しかし彦次郎の妻だけには言葉も掛けず酌もしませんでした。この仕打ちで彦次郎の妻は九兵衛との事が公になったことを知り、急ぎ自宅に帰ると、夫あての遺書を認(したた)めそのまま自害してしまいます。 この事件で面目を失った高久保彦次郎の憤慨は甚だしく、大友方に通じ城の守勢が手薄な時を見計らって、敵兵を城内に引き入れたため針目城は大混乱に陥り遂には落城します。 そしてこの機に乗じて彦次郎は初山九兵衛とその奥方を斬り捨てたと「筑前國続風土記」に記されています。




貝原益軒は「筑前國続風土記・針目古城」の項の最後で「この城番の姓名に関しては『九州軍記』に他説があるが、村の古老の伝える初山九兵衛が実説である。」と締め括っています。




【おしどり伝説】(戦国時代) -三原貞吉の話-

貝原益軒は「筑前國続風土記」に次のような話を載せています。

戦国の頃、筑後三原郡に三原貞吉(みはらさだよし)という武将がいました。大友氏の配下で、ある日に所用で主家の豊後へ出かけます。その途中、志波村(現在の原鶴温泉から北西の地帯)の香山淵を通りかかると、鴛鴦(おしどり)のつがいが仲良く泳いでいるのを見つけます。弓に自身のあった貞吉は腕試しに雄鳥を射殺してしまいます。そして、その雄鳥を拾い上げてみると、矢は首に当たったようで躯(むくろ)となり果てていました。
その後、豊後に行きしばらく逗留した貞吉は、その帰路に再び香山淵を通りかかると、先日の雌鳥の鴛鴦が一羽でいるのを見つけます。「これは得たり」とこの雌の鴛鴦も弓で射抜いてしまいます。そして、その鴛鴦を拾い上げてみると、なんと羽の内には先日射殺した雄鳥の首が擁かれていたのです。
この首を目にした貞吉は自分の行為の罪深さを知り、時を置かずに出家の道を選んだという事です。


最後に益軒は「沙石集第八巻」や「近比丸鑑」という書物に同じような話が記載されていることを指摘しています。




【お綱門の事】(江戸時代) -福岡城内での悲劇-

福岡城には戦前まで「お綱門」という門が残っていたそうです。第二代藩主・忠之の頃、城に乱入しようとした女人が門番に斬られ、この門まで辿りつき絶命したといわれるいわく付きの門になります。その女人の名が「お綱」でこの事件の頃からこの門は「お綱門」と呼ばれるようになりました。そして巷では「お綱門に触ると高熱が出て死んでしまう」などといった噂が広がり、夜警の兵卒もお綱門方面の巡回を非常に怖れたと言います。

この事件の発端は藩主・忠之が参勤交代の帰りに大阪の芸妓を連れ帰り城内に住まわせたことから始まります。この事に気分を害した忠之の奥方からの依頼で重臣たちは「ほどほどに・・・」と幾度も忠之を諌めます。忠之は仕方なく近臣の浅野四郎左衛門へこの芸妓を譲り渡しますが、四郎左衛門はこの芸妓を城内の邸宅に住まわせ、正妻のお綱と幼い二人の子供を馬出(まいだし・福岡城より北東4㎞)の別宅に移します。面目を失くしたお綱はひたすら耐え忍ぶ日々を過ごすのですが、四郎左衛門は賄いを入れなくなるどころか別宅に顔をも出さなくなります。この仕打ちに遂に耐え切れなくなったお綱は二人の子供を刺し殺し、長刀を持ち出し夫のいる福岡城へ乱入することになるのです。

事情が事情なので事件に関わった人々は多くを語らず真実のところは伝わっていない様で、そのためか、この話には多くの脚色がなされ怪談話として物語風に伝わっているのかもしれません。
ただ夫から遠ざけられた女性が二人の幼い我が子を手に掛け、長刀を持って乗り込んだ福岡城で斬られたのは事実の様です。馬出には母子三人の墓石が今も残っているという事です。




【飴買い幽霊の話】(1679年) -安国寺に伝わる伝説-

福岡の歓楽街・親富考通り(以前は親不孝通り)の真ん中辺りを博多湾に向かって右手に入ると、安国寺というお寺があります。このお寺には「飴買い幽霊」の伝説が残り、その墓も置かれています。伝説の内容は次の通りです。

深夜、飴屋に若い女性が店の戸を叩き、飴を買いに現れます。この様なことが数日続いたため不審に思った飴屋は、この若い女性の後をつけてみることにします。女性は安国寺に入り墓場の方へ消えてしまいます。そしてそこからは赤ん坊の泣き声が聞こえてきました。
翌日、飴屋は和尚さんに事情を話し、赤ん坊の泣き声がしたあたりを掘り起こすと毎夜、飴を買いに来ていた女性の遺骸と埋葬後に生まれた赤ん坊が見つかります。
女性は墓の中で生まれた我が子に、乳の代わりに飴を与えていたのだろうと、皆は不憫がります。そして飴をなめていた赤ん坊も数日後亡くなったため、改めて墓を建て弔ったということです。


この飴買い幽霊の話は金沢、福島、京都、今治など日本各地にあり、落語噺にもなり、小泉八雲も小説の題材に取り上げているようです。しかし、ただ一つ、福岡の伝説が他県の伝説と異なっているのは赤ん坊が亡くなってしまう事です。この結末はおそらく安国寺にある墓石の形に起因しているのかもしれません。






■Fアイテム■



【「帆柱石」伝説とは?】(古墳時代) -大木が石化した珪化木-


帆柱石の碑と案内板
東区名島の海岸には「帆柱石」と呼ばれる。円柱形の化石があり国の天然記念物に指定されています。この石のネーミングは「神功皇后が三韓出兵の際に使用した軍船の帆柱が化石になった」という伝説から採られています。
実際のところは三千数百万年前の樹木が化石化したもので珪化木と呼ばれています。小倉城天守閣入口附近にも同様の珪化木が展示されており、こちらは響灘の海中より引き上げられたものになります。

小倉城の珪化木
これらの珪化木は「石炭になれなかった樹木」といわれ、炭化することなくそのまま石化してしまった樹木のようです。化学、鉱物学には疎く詳しい事はわかりませんが、状況から推測して筑豊地方に残る石炭と海辺や海底に眠る珪化木は元々、同じ原生林に繁殖した同類の樹木なのかもしれません。




【夜に光を放つ石「魚眼精」】(飛鳥時代) -願いを叶える如意宝珠-

中国の正史「隋書」の倭国の項には次のように書かれています。

「阿蘇山有り。故なく火起こりその石は天に接す。俗をもって異と為し、因って祷祭を行う。如意宝珠有り、その色青く、大きさは鶏卵の如く、夜はすなわち光り有り、云う、「魚眼精」也。」
(阿蘇山という山があり、突然 噴火しその噴石は天にも届く。この異変に人々は祈祷を行う。如意宝珠があり、その色は青く、大きさは鶏の卵ほどである。夜は光を放ち、「魚眼精」と呼ばれている。)

光る石といえば「蛍石」が思い浮かぶのですが、wikiで調べたところ、この石は加熱するか紫外線を当てることによって発光するようです。「魚眼精」が「蛍石」かどうかは想像するしかありませんが、この石の事は、阿蘇山の記事のすぐ後に記載されていることから九州のどこかの地下深くに眠る石なのかもしれません。福岡県朝倉郡には宝珠山という山が存在しており、ここら当たりに「魚眼精」が埋まっていれば面白い事になるのですが・・・。ただ当時の倭国の伝説がそのまま隋に渡り、そのまま見聞録として「隋書」に取り上げられてしまっただけの可能性も大いに考えられますので、採掘に行くのはちょっと見合わようと思います。


「如意宝珠」とは意を思いのままできる玉のことで、神社仏閣にある橋の欄干に飾られる玉ねぎの様な形をした装飾物はこの宝珠を擬して造られたものなので擬宝珠(ぎぼし)と呼ばれ、九段下の武道館の屋根に輝く玉ねぎもこの擬宝珠だと思われます。




【筑紫に置かれた「漏刻」とは?】(飛鳥時代) -中大兄皇子の水時計研究-

漏刻とは水時計の事ですが、中大兄皇子がこの漏刻の研究をしていた事はあまり知られていません。

大宰府政庁の東側の小高い丘(月山)には漏刻が設置されていたといわれ、皇子の母・斉明天皇の藁葬(こうそう・仮埋葬)の地の恵蘇八幡宮にも漏刻が置かれていたという事です。
現在ではその漏刻は残っておらず、また具体的な形状も伝わっていないようですが、段々に置かれた石桶に上段部の石桶から水を貯めて行き、一定量を超えた水は管を通して下段の石桶に流れ落ちる仕組みで、各桶に設置されたメモリのふられたフロートの浮く度合で時間を計る方法だった様です。数年前まで西鉄・太宰府駅前には漏刻のレプリカが置かれていたはずなのですが、もったいない事に現在では撤去されてしまった様です。
ところで奈良県の明日香村には斉明天皇の時代に作られたとされる酒船石遺跡があり、ここには放射状に溝が彫られた「酒船石」と言う巨石が存在しています。そしてこの巨石も中大兄皇子の漏刻研究に何らかの関係があるのではとの説があるようです。

日本書紀には「671年4月25日には漏刻を新しい台の上に置き鐘・鼓を打って時を知らせた。この漏刻は天皇が皇太子であった頃に自分でお造りになったものである。」といった記事が載せられているのですが、もしかしたら中大兄皇子は科学的な面に才能を発揮する理系の人だったのかもしれません。




【博多が初の「透頂香」とは!?】(1369年) -「ういろう」とはブランド名?-

妙楽寺「ういろう伝来の地」碑
「陳員外郎という者が1369年、元代末の乱をさけ博多に移住し、その後上京して将軍義満に種々の薬を献上した。義満はとりわけ透頂香(とうちんこう)を気に入り陳員外郎に京都西洞院に邸宅を賜ったが、その子孫が代々久しく博多と京都に住んで透頂香の製造法を伝える事となった。しかしいつの頃からか博多の家は絶えてしまった。また小田原の透頂香は、北條氏政の時、陳員外郎が家僕を小田原へ遣わし、透頂香を売らしたのが始まりである。透頂香は自家製の薬のため外郎(ういろう)と名付けられ、製造方法はこの二家より外に伝わる事はなかった。」

以上が貝原益軒の「筑前国続風土記」巻の四 博多の末項に記載される透頂香の内容です。 透頂香は外郎(ういろう)と記載されるもののお菓子の「ういろう」ではなく、元々は消臭剤で仁丹の様な形状をした薬だったようです。小田原では現在でも万能薬として透頂香が「ういろう」という名で売られているそうです。たぶん「ういろう」とは製品名ではなくブランド名だったのかもしれません。

そして益軒は記事の最後を「透頂香を日本にて製せしは、博多を初とす。」と締めています。




【「博多べい」ってどんな塀?】(1587年) -戦乱で出た瓦礫の処分方法は?-

櫛田神社「博多塀」
九州を平定した豊臣秀吉は戦災で荒廃した博多を復興するため「博多町割り」を行います。 しかし新しい町並みを造るにあたって頭を悩ましたのが、戦災後の街中に残る大量の瓦礫でした。そこで博多の人々はこの瓦礫を新しく建てる塀に埋め込みました。これを「博多べい」と呼びます。 現在、櫛田神社には嶋井宗室の屋敷跡の「博多べい」が移築され保存されています。屋外に展示されていますので観光客の方も気軽に見ることができ、当時の博多復興の様子を偲ぶことができます。上の写真は名所旧跡のページの「博多べい」碑文にある「但し右方は断面を表す。」の断面部で、粘土と埋め込まれた瓦が断層になっているのが分かります。




【「日本号」ってなに?】(1596年) -戦国史を背負う名槍-

光雲神社「母里太兵衛像」
「日本号」とは、大杯になみなみと注がれた酒を飲み干した母里太兵衛に福島正則が贈った名槍の名前です。 この槍は、元々は天皇家の所蔵で足利義昭へ下賜され、織田信長、豊臣秀吉、福島正則、母里太兵衛と渡ります。
その後、朝鮮の役で太兵衛の窮地を救った後藤又兵衛へ送られたという話がありますが、これは又兵衛の息女が嫁いだ太兵衛の甥の邸宅に「日本号」が保管されていたことから創作された逸話だといわれます。最終的に「日本号」は黒田家より福岡市に寄贈され現在、国宝「漢委奴国王印」(金印)と共に福岡市博物館に所蔵されています。
この槍は渡り歩いた面々から判断しても、戦国の歴史を背負った「国宝」級の名槍といえるでしょう。




【茶器「楢柴」の事】(戦国時代) -博多の豪商・嶋井宗室が所有した茶器-

豊臣秀吉に対抗し島津氏に属して戦った秋月種実は、秀吉軍の九州上陸で勢いづいた立花宗茂の兵に追われ秋月に籠もります。そして秀吉自身が九州に乗り込んで来ると、種実は息女と天下の茶器「楢柴(ならしば)」を秀吉に差し出し降伏します。秀吉はこれを受け入れ種実は日向に転封される事となり、取り潰しを免れました。
秋月氏の窮地を救ったこの茶器「楢柴」は元々、博多の豪商・嶋井宗室が所有したもので、豊臣秀吉や大友宗麟から所望されるも譲らなかったといわれる一品です。秋月種実も「楢柴」をどうしても手中に収めたく使者を幾度となく送りますが、宗室はどうしても手放そうとしなかったために、遂に武力で奪おうとします。これに宗室はとうとう諦め、「楢柴」を譲り渡すことにします。種実の使者は宗室邸に来訪し、大豆百俵と引き換えに「楢柴」を持ち帰りますが、宗室は使者が去った後に、この引渡しに使用した部屋を打ち壊したといわれています。混乱期の商人たちは物を右から左へ動かすだけで巨額な利を得ていたといったイメージが強いのですが、実際は戦国の豪商たちも乱世を生き抜くのが容易でなかったことを伝える逸話だと思われます。

その後「楢柴」は豊臣家から徳川家へと渡りますが、1657年の明暦の江戸大火で行方知れずとなったと言うことです。

-参考「古代の都市・博多」(朝日新聞福岡総局編/葦書房)-




【太宰府天満宮の「麒麟像」】(1852年) -トーマス・グラバーと麒麟像-

太宰府天満宮の「麒麟像」
太宰府天満宮の境内には、「麒麟像」があります。私も子供の頃からその像を知っていましたが、単なる写実性の高い動物像だと思っていました。 学生の頃にこれが中国の空想上の動物「麒麟」だと知りましたが、その写実性?の高さから、西洋美術を学んだ芸術家に依る最近の作品だろうという思いは変わりませんでした。
最近になってこの「麒麟像」が1852年に寄贈されたものと知り「ヘーッ!」驚いたことがありました。
1852年といえば幕末、黒船が来航する1年前のこと、当然、日本は鎖国中。中国で製造されたものが入ってきたのか、蘭学を勉強した芸術家によって鋳造されたのか、ネットで調べたのですが、残念ながら結論は出ませんでした。

ところで、この「麒麟像」には、おもしろい逸話があるようです。 長崎のイギリス人商人のトーマス・グラバー氏は五卿の側付きの志士たちに会うためか(明治に入ってからか?)、太宰府天満宮を数回訪れています。その度にこの「麒麟像」を鑑賞していたそうです。本当の話かは不明ですが、グラバー氏はこの「麒麟像」をどうしても欲しくなり、宮司さんに譲ってもらえないかとお願いしたという話があります。 この「麒麟像」現在も天満宮に現存することを考えると、宮司さんが「これは売り物ではありませんし、施主さんに失礼になりますので・・・」と丁重にお断りした情景が想い浮びます。
しかし「麒麟像」の事が心の片隅から離れないグラバー氏は、その後、アメリカ人のビール会社を引継ぎ社名を「ジャパン・ブルワリー・カンパニー」として、新ブランド「キリンビール」を発売しました。この会社が発展して現在のキリンビールとなったいうことです。
もしかしたら、ラガービールのラベルの絵柄は、天満宮の「麒麟像」がモデルなのかもしれないと思うと、福岡人としてはチョットうれしい気分になってきます。




【「平野國臣紙撚文書」とは?】(1862年) -筆がなけば紙で書く-


福岡市博物館の紙撚文書
「囹圄(れいぎょ)和歌集」
平野國臣は西郷隆盛、真木和泉の他、「池田屋事変」に斃れた宮部鼎蔵、新選組の元をつくった策謀の士、清川八郎、当代随一の開明家、佐久間象山を暗殺した過激攘夷の志士、川上彦斎などとも交わりをもち、当時も名の知れた討幕の志士でした。 1863年「生野の変」で挙兵しますが失敗、捕らえられ京都の六角獄に投獄され、翌1864年の「禁門の変」の混乱で斬首され37歳の一生を終えました。

「平野國臣先生誕生地」碑 中央区今川
この年より溯ること2年、1862年に平野國臣は「寺田屋事変」に関わり捕らえられ福岡で投獄されますが、そこでは筆を所望するも与えられなかったためコヨリで文字を作り紙に練った飯粒で貼り付け文章を書きます。 これが「平野國臣紙撚文書」といわれるもので、芸術性の高さはさるものながら牢の中で時間を持て余したとはいえ、これだけ根気の要る作業を行った國臣の意思の強さがひしひしと伝わる創作物になっています。 絵師・神坂雪佳作の平野國臣肖像画もこの「紙撚文書」を作成している様子をモチーフに描かれています。
「平野國臣紙撚文書」は京都大学電子図書館で閲覧することが可能ですので、興味のある方は一度ご覧ください。

京都大学電子図書館「平野國臣紙撚文書」
「神坂雪佳筆 平野國臣像」 のページへリンク




【「漢委奴国王」印は本物?】(1784年) -なぬ~金印には贋物説があった?-

金印イメージ図
江戸時代に志賀島から発見された「漢委奴国王」印には、意外にも当時より贋物説があったという事です。1700年を経て無傷で発見された奇跡に、疑問の声を上げる人々があっても仕方のない事なのかもしれません。

当時、福岡藩では「修猷(しゅうゆう)館」と「甘棠(かんとう)館」の二つの藩校を立ち上げる時期にあたり、金印を鑑定した亀井南冥が、館長を務める甘棠館の名声を少しでも高めるために「金印発見」を仕組んだのではないかといった疑問を持つ者が現れ、贋物説が真しやかに広まります。そして、この贋物説は最近まで討論され続けています。

贋物説を主張する側の一つの理由としては蛇鈕(じゃちゅう・蛇の形が刻まれた把手部)が中国で発見されている他の金印の中に見当たらないといった事がありましたが、1956年に中国雲南省の墳墓で蛇鈕・「滇王之印(てんおうのいん)」が発見され、この疑問に関しては一応の解決をみます。
また「漢委奴国王」印の印面の一辺が2.3㎝強でこれが後漢初期の一寸であることが指摘され、これも「漢委奴国王」印が本物である根拠とされています。
そして1981年には江蘇省より「廣陵王璽(こうりょうおうじ)」が発見されます。この印は西暦58年に光武帝の第九子・劉荊が廣陵王に封じられた際に受領した王印とされます。把手は蛇鈕ではなく亀鈕でしたが、「漢委奴国王」印と同一工房で作成されたのではないかとの説が出されるほど多くの類似点が指摘されています。
光武帝より奴国王に金印が送られたのが西暦57年の事ですので、「廣陵王璽」と「漢委奴国王」印が同じ技術で制作されたとなると、光武帝より送られた金印が「漢委奴国王」印である可能性が非常に高くなるのです。

これらの発見で、現在では「漢委奴国王」印は光武帝から送られた本物にまず間違いないのでは、という判断が主流となっています。しかし贋物説はいまだにくすぶり続けているのが現状の様です。
亀井南冥自身は贋物説に対して何も語らなかったようですが、作為的なものが無かったとした場合、南冥の憤慨はいかばかりだったかと同情せずにはいられません。

-参考 「『漢委奴国王』金印誕生時空論」(鈴木勉氏/雄山閣)-



福岡市博物館のページには鈕(ちゅう)ついて次のような説明がなされています。「漢帝国内の皇太子や高官などには亀の鈕の印が与えられますが、匈奴(きょうど)などの北方諸民族の王には駱駝や羊の鈕、蛇の鈕の印は南方の民族に与えられました。日本列島は南方の国と考えられていたようです。」(原文のまま)




【中山鹿之介の陣鐘?】(明治時代) -国宝・西光寺の梵鐘-

国宝「西光寺梵鐘」
明治30年(1897年)頃の事、早良内野の西光寺の檀家衆はお伊勢参りに出かけます。その帰途、大阪に泊まった一行が街中を散策中、一人の檀家が古物商の軒先に雨ざらしになった梵鐘に目を止めます。汚れた上に乳部(上部にある複数の突起)が3つも外れている鐘。「松江の金物店から引き取ったんやけど、高値でなかなか売れませんのや。潰して金でもとろうか思って乳部を鑑定に出したんですけど含有量が少のうて・・・。由緒ある鐘やけど勉強しますに、どないですか?」店の主人の説明はこんな感じだったと想像するのですが・・・。 梵鐘に刻まれた銘文に詳しい人物がいたのか、一行はこの鐘を買い取ることに一決し、後日に三百六十五円を支払い梵鐘を地元の内野・西光寺に納めます。当時の物価は物によっても違うのでしょうが、150~200万円といったところでしょうか? のちに平安時代の893年に鋳造されたもので戦国時代の尼子氏やその家臣・中山鹿之介とも縁のある梵鐘であることが判明します。この事から「中山鹿之介の陣鐘」との逸話も生まれた様ですが、陣鐘にしてはちょっと大き過ぎる気がしないでもありません。

日本で鋳造年が判明しているものとしては5番目に古いこの梵鐘は1954年に国宝に指定されています。




中山鹿之介は毛利氏に滅ぼされた尼子氏の家臣で、尼子氏の再興に命を掛けますが支援する織田軍が兵を引いたため孤立し敗れ、毛利の軍に捕らえられ斬られます。鹿之介の残したといわれる「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」の言葉は余りにも有名です。 今現在、大きな壁に突き当たって抜け出せそうにない人も、この言葉を噛み締めれば多少なりとも勇気が湧いてくるのかもしれません。


































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