■福岡人物伝■



[ 弥生・古墳 ]


【奴国王(なこくおう)】(西暦57年頃)
倭国の最南端にあった国の王で、西暦57年に「大夫(だゆう)」という役職の使者を後漢に派遣します。 これに対し当時の皇帝であった光武帝は金印を送りますが、これが江戸時代に志賀島の田地より掘り出され、 現在は福岡市博物館に所蔵されている「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」印になります。





【大夫(たゆう)】(西暦57年頃)
西暦57年、奴国王の命により後漢に派遣され金印を持ち帰った人物です。中国・南北朝時代の432年頃に記された「後漢書」には「倭の奴国、貢物を奉って朝貢す。使者は大夫と自称す。」とのみ記載されています。大夫とは人名ではなく役職の事の様で、派遣された人物の氏名は伝わっていないようです。





【卑弥呼(ひみこ)】(西暦200年代中頃)
倭国大乱を収束に向かわせた邪馬台国の女王。現在では邪馬台国所在地論争で畿内説に押されている 九州説ですが、福岡県内にも比定地として甘木、八女、大和(瀬高)などが挙げられています。





【景行天皇(けいこうてんのう)】(西暦300年前後?)
崇神天皇の孫で、橿日宮で崩御した仲哀天皇の祖父にあたります。
皇位に就いた当時、出産時に夫は子供が生まれるまで臼を担いで家のまわりを廻る風習があり、天皇も皇后が出産する際にこの風習に倣い、臼を担いで屋敷のまわりを廻っていたのですが、子供が双子だとわかった天皇は臼に向かって「こん畜生」と叫んだという逸話が日本書紀に記載されています。この時、生まれた双子の弟が後の日本武尊(やまとたけるのみこと)になります。
在位12年、熊襲が背いたため九州に遠征し、豊前、豊後から日向と向い熊襲を平定します。その後、西に向かい八代より有明海に出て、玉名、阿蘇に抜け、福岡県の三池、八女、浮羽を訪れ大和へ帰還しています。
逸話より行動派の天皇だったと想像されるのですが、伝説上の人物ではないかといった説も根強いようです。






【武内宿禰(たけのうちすくね)】(?~?)
日本書紀には筑紫にて神功皇后の補佐をした記述もある人物です。景行天皇から仁徳天皇まで5代の天皇に仕え、 日本書紀の記述が正しいとすれば武内宿禰は300歳近い寿命を全うしたことになりますが、武内氏が数代にわたって歴任した役職ではないかともいわれています。





【仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)】(?~362年)
日本武尊(やまとたけるのみこと)の息子で熊襲征伐に意欲を燃やしますが橿日宮で突然崩御します。 崩御の理由は后の神功皇后の神託に従わなかったためとも、熊襲の矢に当たったためとも言われていますが、 歴史学上では実在しなかったという説もあるようです。





【神功皇后(じんぐうこうごう)】(?~389年頃)
仲哀天皇の后で朝鮮半島へ出兵し自らも向かいます。主に九州北部中心で活動した人物で、 その一帯には皇后を祭る神社・史跡や伝説が数多く残ります。仲哀天皇と同じく架空の人物という説もあります。





【大伴金村(おおともかなむら)】(?~?)
西暦500年代前半から中盤にかけての大和王権の重臣。倭国の朝鮮半島へ影響力が弱まると百済に任那四県割譲を行い、 また「磐井の乱」では継体天皇に物部麁鹿火を討伐軍の将軍に推薦します。 のちに任那四県割譲問題で責められ大和政権の表舞台より去ることになります。 ちなみにこの人物は九州に来た記述はないようですが、息子の磐(いわ)と狭手彦(さてひこ)を任那支援に向かわせ、 磐は筑紫で後方支援を担当したと日本書紀に記載されています。 そして狭手彦は唐津より出航して任那へ向ったといわれますが、 その時、松浦佐用姫(まつらさよひめ)という女性が狭手彦との別れを悲しむ余り、そのまま石になってしまったという伝説が残っています。

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【物部麁鹿火(もののべあらかい)】(?~536年)
任那四県割譲の承諾を百済の使者に伝える役目を命ぜられますが、妻の強い制止に従い病を理由にその役を断ります。 「磐井の乱」では継体天皇に命じられ筑紫に出兵し三井郡(みいのこおり、三井郡大刀洗町、久留米市北野町)で磐井を破り乱を平定します。





【磐井(いわい)】(?~528年)
朝鮮での勢力挽回を目指す大和政権から、朝鮮半島への戦役負担命令を受けた国造(くにのみやっこ)磐井はこれに反発し乱を起こします。 しかし継体天皇の命で派遣された物部麁鹿火に破れ斬られたといわれます。

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【近江毛野(おおみけな)】(?~530年)
継体天皇の命で近江毛野は新羅に奪われた地域を取り戻すため任那へ向かいますが、 その途中の九州で国造(くにのみやっこ)の磐井へ出兵の命令を伝えます。磐井はこの命令を拒否し反乱を起こします。 乱は1年半で平定されますが、その後、兵を率い朝鮮に渡った近江毛野の任那復興は上手くゆかず、新羅のみか百済からも攻められ窮地に陥ります。 この失策を理由に帰還を促されますが、すぐには戻らず二度目の命令でようやく腰を上げます。しかし帰国途中の対馬で突然病死することになりました。

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[ 飛鳥 ]


【斉明天皇(さいめいてんのう)】(594年~661年)
中大兄皇子の母親で重祚(二度以上、天皇の地位に在位すること)した初めての天皇です。 二代前の皇極天皇の時に皇子の蘇我入鹿暗殺を目の当りにし退位を決意しますが、 再び斉明天皇として皇位に就き、百済復興のため入った筑紫で崩御します。 観世音寺はこの斉明天皇を弔うために中大兄皇子が建立した寺といわれています。

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【中大兄皇子(なかのおうえのおうじ)】(626年~672年)
645年の「乙巳の変(いっしのへん)」で蘇我入鹿を暗殺し、政権を掌握します。 その後、新羅・唐の連合軍に百済が滅ぼされると百済復興の軍を起こしますが、日本軍は「白村江の戦い」で 破れたため以後は九州の防衛に力を入れ大宰府の移転、水城、大野城を築きます。 この中大兄皇子は意外なことに水時計の研究開発も行った様で大宰府政庁にも水時計が設置されていたということです。





【栗隈王(くるくまおう)】(?~676年)
「白村江の戦い」から四年後、668年7月に栗隈王は防備が整いつつあった筑紫に赴任し筑紫率(つくしのかみ)の地位につきます。 その後、翌1月には蘇我赤兄(そがあかえ)が筑紫宰(つくしのかみ)に任命されますが、赤兄は赴任した形跡が見当たらず、 実務は栗隈王が執っていたと思われ、671年には再び栗隈王が筑紫率に任命されます。この辺りの人事については、後の「壬申の乱」 に繋がる派閥闘争が既に始まっていたことを表しているのかもしれません。そしてこの年に天智天皇が崩御すると、翌年には後継者問題で皇太子の大友皇子と天皇の弟の大海人皇子の対立が表面化します。 大海人皇子派であった栗隈王は大友皇子より援軍の命を受けますが、「筑紫の兵は外敵の備えであり内乱に向ける兵ではありません。」 と断わります。この「壬申の乱」は結果的に大海人皇子が勝利し天武天皇として即位、蘇我赤兄は家族と供に流罪の刑に処せられ、 栗隈王はその三年後に兵政長官に任命されています。
因みにこの栗隈王の孫が奈良時代に藤原四兄弟に代り政権を執った橘諸兄になります。


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【佐伯連男(さえきのむらじおとこ)】(?~?)
「壬申の乱(672年)」で大友皇子の意を受け筑紫に派遣され、筑紫率の栗隈王に援軍を出すよう命令した人物です。栗隈王がこれを拒否したため佐伯連男は栗隈王を斬ろうとしますが、護衛が栗隈王のそばから離れようとしなかったため果たせず筑紫を去りました。
想像になりますが、この人物は「乙巳の変(645年)」に関わった佐伯連子麻呂(さえきのむらじこまろ)の近親者と思われます。


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[ 奈良 ]


【道君首名(みちのきみおびとな)】(662年~718年)
朝廷の官僚として「大宝律令」の選定に参加し、51歳の頃に新羅大使として1年ほど赴任します。 そして帰国した首名は筑後や肥後の施政を任され、果物や野菜の栽培、畜産を促進、灌漑対策など農政の改革を行います。 その際、規則を発布しそれに従わない者には罰則を科すような強引な施政を行い批判を買いますが、 その成果が表れだすと首名を指示する農民が増えたといわれます。 そしてその5年後には死去しますが筑後や肥後の人々はその功績を想い首名を祀ったといわれ、筑後や肥後には首名のものといわれる史跡が残っています。

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【鑑真和尚(がんじんわじょう)】(688年~763年)
5度の渡航に失敗し、6度目の渡航で来日を果たした唐の高僧です。観世音寺で日本初の授戒を行い、8年後にその地に戒壇院が建立されます。

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【玄昉(げんぼう)】(?~746年)
藤原氏の有力者たちが当時に流行した天然痘で次々に死去すると橘諸兄(たちばなもろえ)が権力を担い脱藤原氏の体制を目指します。 唐留学僧・玄昉(げんぼう)はその諸兄に抜擢され僧正に任じられますが大和政権での派閥抗争は収束せず、 8年後には自らが観世音寺へ左遷され翌年には原因不明で死去する事になります。現在、戒壇院の北側に玄昉の墓が残っています。

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【吉備真備(きびまきび)】(695年~775年)
奈良時代に安倍仲麻呂や玄昉と共に唐に派遣された留学生です。時の権力者の橘諸兄(たちばなもろえ)に抜擢され改革を進めたものと思われますが、 藤原仲麻呂の台頭により筑前守として左遷されます。そして副遣唐使や大宰少弐、大弐を歴任した後に大和へ戻りますが、 今度は逆に自分の左遷を画策した藤原仲麻呂が乱を起したためその討伐を命じられます。

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【藤原広嗣(ふじわらひろつぐ)】(?~740年)
藤原広嗣は藤原鎌足の曾孫に当たります。 当時の朝廷内で有力者だった父親や伯叔父たち(藤原四兄弟)が天然痘で次々に死去すると脱藤原政権を目指す橘諸兄が台頭します。 諸兄は唐留学の経験を持つ玄昉や吉備真備を抜擢しますが、逆に藤原氏の中心人物となった広嗣は大宰府に左遷されます。 これに憤慨した広嗣は大宰府で玄昉や吉備真備を弾劾するために軍を起します。しかし北九州で朝廷軍に破れ、後に唐津で斬られることになりました。

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【佐伯常人(さえきつねひと)】(?~?)
奈良時代中頃の武人で740年の「藤原広嗣の乱」を平定するために派遣された人物です。「板櫃川の戦い」では川を挟んでの藤原広嗣との論戦で広嗣に大儀がないことを指摘し、広嗣に兵を引かせています。

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[ 平安 ]


【小野岑守(おのみねもり)】(778年~830年)
平安初期の政治家で伝説の詩人・小野篁(たかむら)の父親になります。文人でもあり「凌雲集」「日本後紀」の編纂にもあたります。大宰大弐として着任した際、道端に行き倒れた人々を目の当たりにし、これをあわれみ救済施設「続命院」を創設します。
余談になりますが、幕末維新に活躍した医師・高松凌雲の号は福祉に勤めた岑守の編纂した「凌雲集」が元になっているのかもしれません。


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【菅原道真(すがわらみちざね)】(845年~903年)
菅原道真は優れた才能で朝廷での位を次々に進めますが、藤原時平の画策により大宰府へ配流されます。 そして翌年には京都より伴った幼い子供が亡くなり、京都からは妻の死の知らせが入ります。 そして自身も失意の中で病を得て病没することになります。 遺骸は安楽寺へ埋葬されますが、後にその地に太宰府天満宮が創建され、その学才から学問の神様として祀られることになります。

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【味酒安行(うまさかやすゆき)】(?~?)
味酒安行は菅原道真の配流に従った人物です。道真の死去後は遺骸を牛車に乗せて安楽寺へ運び埋葬し、翌年には祠廟を創建します。 この味酒安行が立てた祠廟が後の太宰府天満宮で、現在では沢山の参拝客、観光客が訪れる福岡一の観光地となっています。

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【小野好古(おのよしふる)】(884年~968年)
伊予の本拠地を奪われた藤原純友が大宰府を襲うと朝廷から平定を命じられた小野好古は九州に入り博多湾で純友軍と戦い撃破します。 櫛田神社に祀られる三神の内、素盞嗚大神(スサノウノミコト)はこの「藤原純友の乱」の平定後、小野好古が祀ったものだと 博多祇園山笠公式サイトに記載されています。また太宰府の春の一大行事「曲水の宴」は大宰大弐だった好古が執り行ったのが始まりといわれ 文武両道の人だった事が想像されます。

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【大蔵春実(おおくらはるざね)】(?~?)
前漢高祖・劉邦、後漢光武帝・劉秀の血を受け継ぐといわれる人物で朝廷より「藤原純友の乱」の平定に派遣されます。 乱の平定後は大宰府南方の原田に屋敷を置き大宰大監(だざいだいかん)に就任します。その後、京都に戻りますが その地に残った子孫は地名の原田氏を名乗り筑紫の豪族となります。また江戸時代の米沢藩の財政を立て直した上杉鷹山は春実の末裔に当たります。

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【藤原純友(ふじわらすみとも)】(893年~941年)
瀬戸内海で海賊行為を行い暴れ回った藤原純友の軍は本拠地の伊予を朝廷軍に制圧されると、 筑紫に逃れ大宰府を襲い観世音寺で略奪を行います。 しかし博多湾で朝廷軍に破れ伊予に逃げ戻りますが、そこで捕らえられ獄死する事になります。

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【藤原隆家(ふじわらたかいえ)】(979年~1044年)
平安時代の名門出身の隆家は大宰府へ大宰権帥(だざいごんのそつ、大宰府長官)として赴任中、博多湾に来寇した「刀伊の海賊」と戦い撃退します。 しかし残念な事に10代の頃に花山法皇の袖を矢で射抜いてしまうといった事件を起こしています。 この人の性格と爽快な生き方から後世の人からもっと注目されてよい人物なのですが、 もうひとつ注目されないのはその事件がネックになっているのかもしれません。

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【平頼盛(たいらよりもり)】(1133年~1186年)
平清盛の異母弟で平治の乱に活躍します。平清盛の指示により博多に人口港「袖の浦」が建造されたといわれていますが、 実際この港の建造を采配したのは1166年大宰大弐任命された平頼盛だと思われます。 ただし貝原益軒の「筑前国続風土記」には菅原道真配流の時期には「袖の浦」が存在したことをにおわす記述があり、 「袖の浦」の確かな建造年はわかっていません。 ところで頼盛はのちの源平合戦の時、平家一門と袂を分つ事となり、「壇ノ浦の戦い」の翌年に京都で病没します。

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【源為朝(みなもとためとも)】(1139年~1170年)
父親の源為義より勘当され九州にやって来た為朝は自ら鎮西八郎を名乗ります。 「鎮西」とは九州の治安を守る機関またはその統率者のことで、「八郎」は源為義の八男を表しているのですが、 この八郎、九州の治安を守るどころか豊後を中心に肥後、豊前、筑前で暴れ回ったようで、 その傍若無人な行動により遂に香椎宮に訴えられ朝廷より帰京を命ぜられています。 始め八郎はこの命令を無視していましたが、息子の責任を負った父・為義が職を追われると観念し豪傑28人を引連れ京に戻って行きました。 因みにこの豪傑の中の豪傑・為朝は源頼朝、義経の叔父にあたります。

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【平貞能(たいらさだよし)】(?~?)
鎮西反乱が起こると1181年、筑紫に派遣されその翌年には乱を平定し一旦帰還しますが、都は木曽義仲の軍が迫り大混乱の中にありました。貞能は「都に留まるべき」と主張しますが、平家一門は西へ落ちて行き、仕方なく貞能もその後を追って大宰府に入ります(平家物語では東国に向かい宇都宮朝綱の元に身を寄せたとされています)。しかし、今度は豊後の緒方惟義が九州退去を勧告し兵3万で大宰府に迫ります。一門は着の身着のまま四国屋島に逃れますが、貞能はこの時、一門と袂を分かち九州に留まり後に源氏へ下ったと言われています。

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【原田種直(はるだたねなお)】(?~?)
都落ちした安徳天皇と平家一門を筑紫に迎え入れますが、豊後の兵が攻め寄せて来たため平家一門は着の身着のまま北に向かいます。種直はその後を追い、遠賀川河口の山鹿まで護衛しています。
この約1年後には源範頼が九州上陸を開始し芦屋海岸に攻め寄せたため、これを阻止するため交戦しますが敗れ源氏の軍の上陸を許します(葦屋浦の戦い)。そして数日後には平家は壇ノ浦に滅び、種直は捕らえられ鎌倉に送られます。
その後、数年間拘束された種直は、許され怡土に領地を与えられ九州の地へ戻ることになります。


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【按察使局伊勢(あぜちのつぼねいせ)】(?~?)
「壇ノ浦の戦い」で平家が敗れると安徳天皇を抱いて入水したといわれる女性で、鎌倉軍の兵士に引き上げられます。 時期は不明ですが伊勢はその後、九州筑後へ移り、筑後川の辺(ほとり)に社を建て安徳天皇、高倉平中宮(平徳子、清盛の娘)、二位の尼(時子、清盛の妻)を祀ります。 そしてこの社で加持祈祷を行い村人より敬われたといわれます。この社が久留米水天宮の起源になり、 現在、境内にある「千代松神社」はこの按察使局伊勢を祀ったものです。

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【山鹿秀遠(やまがひでとう)】(?~1185年?)
豊前国との境、筑前国山鹿の豪族です。治承・寿永の乱では平家方に属し、大宰府を追われた安徳天皇と平家一門に最後まで付き従います。壇の浦では平家の主力として戦いますが、平家一門と運命を共にしたものと思われ、以後は歴史に登場することはないようです。ところで山鹿いえば熊本の山鹿市が有名ですが、山鹿氏は菊池氏の同族といわれることから菊池市に隣接する山鹿市と筑前の山鹿の地名には何らかの関係があるのかもしれません。
余談になりますが、これより160年程前に「刀伊の海賊」を撃退した藤原隆家は秀遠の祖であるとの説もあるようです。


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【安徳天皇(あんとくてんのう)】(1180年~1185年)
木曽義仲が京都に攻め上ると、安徳天皇は平家一門に守られ筑紫大宰府へ逃げ落ちます。 しかし、大宰府も安住の地ではなく緒方氏に攻められ四国屋島へ逃れます。 その後、「一の谷の戦い」、「屋島の戦い」と源義経の軍に破れ、ついに1185年4月「壇ノ浦の戦い」で平家軍が壊滅すると、 僅かに五歳の安徳天皇は二位の尼(平時子、外祖母で平清盛の妻)と共に入水し亡くなります。 ところで平家一門が都落ちで大宰府に入ったときは、大宰府は戦乱で焼け落ちていたといわれ、 安徳天皇は那珂川の原田種直屋敷に滞在したとも言われています。現在、その地は「安徳」という地名で残っています。

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[ 鎌倉 ]


【少弐経資(しょうにつねすけ)】(1225年~1292年)
少弐氏の嫡男で元寇では弟の景資と共に奮戦します。「弘安の役」では博多湾から壱岐へ移動した元軍を追撃し壱岐から駆逐しますが、 この戦いで父・資能と長男・資時を亡くしています。 戦後、鎌倉で「霜月騒動」が起こると安達盛宗を討ち、弟の景資の岩門城を攻め自害させます。





【安達盛宗(あだちもりむね)】(?~1285年)
鎌倉の「霜月騒動」で自害した安達泰盛の子で「弘安の役」の戦後処理を行なっていましたが、 「霜月騒動」の余波を受け少弐経資に博多で討たれたとも、少弐景資の岩門城で討死したともいわれています。

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【少弐景資(しょうにかげすけ)】(1246年~1285年)
少弐資能の三男で、少弐経資の弟。元寇の役では日本軍の中心人物として奮戦しますが、 戦後、鎌倉で「霜月騒動」が起こるとその余波を受け兄・経資に岩門城を攻められ自害します。 現在、那珂川町山田の城山の麓に景資の墓が残っています。





【竹崎季長(たけざきすえなが)】(1246年~?)
肥後の竹崎季長は文永・弘安の役に参陣し奮戦します。 戦後は「蒙古襲来絵詞」を残しますが、現在ではこの絵巻が戦役の重要な資料となっています。

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【河野通有(こうのみちあり)】(1250年~1311年)
伊予の御家人で「弘安の役」に博多湾岸警護に参陣します。 河野の軍は防塁を背に陣を張り元軍に怯るまない姿勢を見せました。 この陣は「河野の後築地(うしろついじ)」と評判になり日本軍の意気高揚につながったといわれます。 また操船術に長けた河野軍は小船で元軍の船に夜襲をかけます。通有は元軍の放った石弓により負傷しますが、 敵将を生け捕りにする武功を挙げたと言われています。





【草野経永(くさのつねなが)】(?~?)
筑後の御家人で父・草野永綱(くさのながつな)と共に「弘安の役」に参陣します。 博多湾に悠々と停泊する元の船団を目の当たりにした経永は「何とか一泡吹かしてやろう」 と2艘の小船に郎党を分乗させると夜陰に紛れて元の軍船に近づきます。そして敵船に飛び移ると火をかけ、 無警戒だった元軍の兵士たちを次々に討ち取り、凱旋します。 この奇襲戦の成功を知った他の御家人たちは「先を越された!」と悔しがり、その後に多数の小船が夜襲をかけたといわれています。 敵将を生け捕りにした伊予の河野通有も経永の夜襲の翌日に出撃しています。 この経永の家名「草野」は始祖の永経(ながつね)が平安末期に地名の草野を名乗ったもので、 その地名は現在でも久留米市の中心地より10㎞ほど東方に草野町(くさのまち)として残っています。





【北条英時(ほうじょうひでとき)】(?~1333年)
最後の鎮西探題で足利尊氏の正妻・登子の兄。「元弘の乱」で動揺する九州の御家人を博多の鎮西探題に呼び集め収拾に務めようとしますが、 博多に入った肥後の菊池武時は鎮西探題打倒を目指し探題を襲います。 この時は少弐、大友の協力を得た英時が菊池武時を討ち取ります。 しかし2ヵ月後には少弐貞経、大友貞宗、島津貞久に攻められ自害することになります。

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【少弐貞経(しょうにさだつね)】(1272年~1336年)
「元弘の乱」では菊池武時の決起要請の使者を切り捨て、翌日には北条英時の鎮西軍と共に鎮西探題に討入った菊池武時を敗死させます。 そして、その2ヵ月後には大友貞宗と共に北条英時を攻め滅ぼし最後の北条氏の勢力を殲滅します。 しかし、3年後に大宰府へ攻め込んで来た菊池武敏(菊池武時の九男)に有智山城を攻められ自害することになります。

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【大友貞宗(おおともさだむね)】(?~1334年)
「元弘の乱」で北条英時の鎮西軍と共に鎮西探題に討入った菊池武時を敗死させますが、 その2ヵ月後には少弐貞経と共に北条英時を攻め滅ぼし最後の北条氏の勢力を殲滅します。そしてその7ヶ月後には貞宗自身も急死する事になります。

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【島津貞久(しまづさだひさ)】(1269年~1363年)
「元弘の乱」で少弐貞経、大友貞宗と共に鎮西探題・北条英時を攻め滅し、「多々良浜の戦い」では足利軍に属して戦います。 島津氏は少弐氏、大友氏と共に鎌倉時代に守護を命じられ少弐氏は九州北西部、大友氏は北東部、そして島津氏が九州南部を治めます。 この三氏は九州御三家と呼ばれ九州の中心武家として戦国時代まで存続しますが、江戸時代以降も続いたのはこの島津氏だけでした。

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【菊池武時(きくちたけとき)】(1292年~1333年)
鎮西探題・北条英時の呼びかけで博多に参陣した肥後の菊池武時はこれを好機と捉え鎮西探題打倒の旗を揚げ北条英時の探題へ討ち入ります。 しかし探題打倒の密約を交わしていた少弐、大友両氏は探題側につき菊池武時は討たれます。 武時は前夜に少弐貞経、大友貞宗に決起要請の使者を送っていたので、当然、鎮西探題側は武時の動きを察知していたことになります。 武時もこの事は承知の上で決死の討入りだったようで、鎮西探題へ向う途上の櫛田神社付近で嫡男・武重に再起を命じ肥後へ帰国させています。

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[ 南北朝・室町 ]


【少弐頼尚(しょうによりなお)】(1294年~1372年)
少弐貞経の嫡男。九州に落ちた足利尊氏を下関で出迎え京の戦で敗れた尊氏を励ましたといわれます。 そして父・少弐貞経を討った菊池武敏を尊氏と共に「多々良浜の戦い」で破り、肥後に追います。 しかし二十数年後日本三大合戦に挙げられる「筑後川の戦い」で菊池武光に破れ2年後に大宰府を奪われることになります。

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【足利尊氏(あしかがたかうじ)】(1305年~1358年)
後醍醐天皇に反旗をひるがえした足利尊氏は、北畠、新田、楠木軍に破れ、海路九州に落ち延びます。 これを知った菊池武敏・阿蘇惟直は肥後より北上し尊氏打倒を目指しますが、尊氏はこの軍を「多々良浜の戦い」で打ち破り大宰府の原八坊・一坊に 入り京都奪還を目指します。

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【阿蘇惟直(あそこれなお)】(?~1336年)
足利尊氏が九州に上陸すると菊池武敏と共に筑前へ攻め上り、多々良浜で尊氏軍と激突します。 しかし戦いに敗れたため山越えで佐賀方面へ撤退を試みますが、小城の千葉氏の攻撃を受け天山付近で自害しました。 のちに妻女がその地を訪れ惟直の後を追ったという話が残っています。

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【菊池武敏(きくちたけとし)】(?~1341年)
菊池武時の九男。京都より落ちてきた足利尊氏が九州に上陸した情報を掴むと、阿蘇惟直と共に肥後より攻め上ります。 そして少弐氏の有智山城を攻め落とし父・武時の仇、少弐貞経を自害させます。 しかし貞経の嫡子・少弐頼尚や尊氏の軍と多々良浜で戦い敗れると南に撤退します。

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【一色範氏(いっしきのりうじ)】(?~1369年)
「多々良浜の戦」に勝利した尊氏に九州探題を命じられた一色範氏はそのまま筑前に残りますが、 これに「筑前に二人の主は要らず」と反発したのが少弐頼尚で両者は争うことになります。 この武家派同士の戦いに乗じ、南朝方の菊池氏も再び肥後から筑後筑前へ進出してきます。 範氏はまず菊池氏と手を結び1351年「月隈・金隈の戦い」で少弐氏と、1353年「針摺原の戦い」で菊池・少弐氏の連合軍と争います。 しかし「針摺原の戦い」で大敗した2年後に範氏は九州を追われることになるのです。

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【菊池武光(きくちたけみつ)】(1319年~1373年)
菊池武時の十男で、母親方の後ろ盾がなかったためか十三代頭主の兄・菊池武重の没後、弟の武士(たけし)にその座を譲ります。しかし公卿の娘の子であった武士は武力、統率力に欠けたのか頭主の座を廃されて、武光が十五代頭主となります。 その後 武光は後醍醐天皇の皇子・懐良親王を迎え着々と勢力を拡大し筑後から筑前へ侵攻します。 この時、筑前では北朝方の少弐頼尚と九州探題・一色範氏との間で内部抗争が起こっていました。 武光は先ず一色範氏と手を結び少弐頼尚に当たり、次に頼尚と同盟し範氏を破ります(針摺原の戦い)。 この戦いで大敗を喫した範氏は後に九州を追われます。 そして武光は残った宿敵・少弐頼尚と「筑後川の戦い」で壮絶な戦い繰り広げ、勝利を勝ち取り2年後には大宰府を奪います。 この時より12年間、九州は南朝勢力が掌握することとなります。

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【今川了俊(いまがわりょうしゅん)】(1326年~1420年)
渋川氏に代わり九州探題に命じられると長門の大内氏の協力を得て九州に上陸します。 そして菊池武光を筑前より追い落とし12年ぶりに大宰府を南朝勢力より奪い返します。 しかし九州探題に筑前支配の主導権を奪われる危険性を感じた少弐冬資(しょうにふゆすけ、少弐頼尚の次男)が南朝軍の攻略に非協力的になると、 了俊は肥後の水島(山鹿と菊池の間の地域?)で謀略を用い冬資を殺害しました。 この暴挙で了俊と冬資の仲を取持った島津氏久は離反し、大友親世も一時兵を引き上げています。 了俊は25年ほど九州に留まったのち帰還命令が出たため京都へ戻りますが、 その後、筑前には了俊の九州支配に協力した長門周防の大内氏が進出して来ることになります。

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【懐良親王(かねながしんのう)】(1329年~1383年)
後醍醐天皇の皇子で、薩摩から九州へ上陸し南朝側の菊池武光に迎えられ肥後北部の菊池に征西府を開きます。 その後、菊池氏の武力を背景に1361年に大宰府を攻略し九州をほぼ制圧します。 この頃、創生期の明では倭寇に手を焼いた洪武帝が抗議の使者を送りますが、これに日本国王として応対したのが懐良親王です。 親王はこの使者を斬捨てる素振りをしたり、アイロニーに富んだ長文の返書をしたためたりと、一筋縄では行かない人間性を垣間見せています。

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[ 戦国 ]


【毛利元就(もうりもとなり)】(1497年~1571年)
主家・大内氏を倒した陶晴賢(すえはるかた)を「厳島の戦い」で破り、大内氏の地盤を手にすると次に筑前へ進出し大友宗麟と対立します。 元就は宗麟に父を殺された秋月種実に兵を与え秋月に帰還させた上、抵抗させ、 次に大友氏の有力武将・高橋鑑種(たかはしあきたね)を調略し謀反を起させます。 しかし大友宗麟の支援する大内氏残党や尼子氏が毛利の背後を脅かしたため中国へ撤退せざるおえなくなりました。

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【立花道雪(たちばなどうせつ)】(1513年~1585年)
大友氏の猛将で、反旗を翻した立花鑑載(たちばなあきとし)を降して立花山城に入場するまでは戸次鑑連(べっきあきつら)の名で知られています。 毛利氏と連携した筑前の秋月、高橋、筑紫氏らが抵抗の兵を挙げると大友軍の中心武将として戦い、 また肥前の龍造寺氏、中国の毛利氏の侵攻を防ぐ活躍をします。 若い時に雷に打たれ足が不自由だったため戦場では輿に乗って指揮をとったといわれています。

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【高橋鑑種(たかはしあきたね)】(1529年~1579年)
一萬田氏の出で大友宗麟の有力武将。筑前・高橋家に養子として入り宝満城を任され、支城の岩屋城を築きます。 1567年、筑前侵攻を目指す毛利元就の調略により反旗を翻します。 しかし後方を撹乱された元就が中国へ撤退すると、孤立し筑前を追われることになります。 この謀反の理由は宗麟が鑑種の実家・一万田家を攻め滅ぼし、実兄の一万田親実の婦人を側室に入れた事が一因といわれています。

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【大友宗麟(おおともそうりん)】(1530年~1587年)
豊後の守護大名で、最盛期には豊前、筑前、筑後から肥後の北部までを手中に収めます。 政治的な駆引きや武将としての能力は高かったようですが、 性格的に強引な面があったのか、配下の武将が各地で反乱を起しています。 そして1578年の「耳川の戦い」で北上してきた島津軍に大敗し多くの有力武将を失い防戦一方となります。 その後、豊臣秀吉の援軍を得たため島津軍は撤退したものその翌年には病没しています。

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【小早川隆景(こばやかわたかかげ)】(1533年~1597年)
毛利元就の三男で、戦国時代の「多々良浜の戦い」では大友氏の猛将・戸次鑑連(べっきあきつら)とも戦っています。 秀吉の九州平定後は北部九州を任せられ、博多の北方5㎞の多々良川河口に名島城を築きます。 その後、養子の小早川秀秋(秀吉の正妻・ねねの甥)に名島城を譲り、自らは広島三原に戻り余生を過ごします。 この人は思慮深く、行動には慎重な人だった様で、 年下の天才軍師・黒田官兵衛を「天才にありがちな、状況に合わせた素早い対応は時により立場を悪くすることもあるので注意するように」と 暗に戒めたといわれています。

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【豊臣秀吉(とよとみひでよし)】(1537年~1598年)
織田信長の部下として頭角を現した秀吉は、信長の死後その領地をほぼ継承し、四国を手中に収めると次に九州平定に着手します。 そして1587年に島津義久を降すと筑前へ戻り、「博多町割」と呼ばれる復興を行います。 権力掌握後の秀吉に対しては様々な評価がありますが、海外貿易を重視する秀吉に対する博多商人たちの期待と信頼の気持ちは大きなものだったと思われます。

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【黒田如水(くろだじょすい)】(1546年~1604年)
荒木村重が信長へ謀反を起こし有岡城(伊丹)に籠もると、黒田官兵衛(如水)は村重の行動を思いとどめさせるため有岡城に入りますが、 そこで1年もの間 拘束されてしまいます。救い出された官兵衛はこの間の土牢生活で、足を患い頭部には瘡の痕が残ったと言われています。 その後復帰し、秀吉へ様々な戦略戦術を献策し天下獲りに大きく貢献します。しかし九州を手中にし、 ほぼ天下平定が現実すると秀吉は中津12万石を官兵衛に与えます。これは官兵衛の功績に見合う石高でなかったため、 側近の者が疑問を投げかけると秀吉は「彼奴(あやつ)に大禄(たいろく)を与えると天下を獲ってしまうわい」とつぶやいたといわれています。

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【高橋紹運(たかはしじょううん)】(1548年~1586年)
反旗を翻した高橋鑑種(たかはしあきたね)が筑前を追われると、 大友宗麟は重臣の吉弘鑑理(よしひろあきこと)の次男を高橋家に送り込み岩屋城と宝満城を守らせます。 これが後の高橋紹運です。島津氏の筑前侵攻の際は、763名の将兵と共に岩屋城に篭もり、数万の敵を相手に半月程持ちこたえますが、 遂に力尽き玉砕します。 しかし紹運の精神は死なず息子・立花宗茂へ引き継がれます。





【秋月種実(あきづきたねざね)】(1548年~1596年)
父親の秋月文種を大友宗麟の配下、戸次鑑連(べっきあきつら)に討たれたため毛利元就の元に身を寄せます。 そして種実は元就の協力を得てを秋月に帰還し大友氏へ対し抵抗の狼煙を挙げます。 1567年の「休松の戦い」では父の仇・戸次鑑連に奇襲をかけ大混乱に落としいれ一矢報います。 種実は大の大友嫌いだったようで、毛利元就が筑前より撤退すると次に島津氏に属し大友氏に徹底抗戦します。 しかし豊臣秀吉の大軍が大友氏の救援で九州に上陸したため降伏し、取り潰しは免れたものの後に日向・串間に転封されることになりました。

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【栗山利安(くりやまとしやす)】(1551年~1631年)
黒田官兵衛が若い時より付き従った人物で黒田家家臣団の中心武将です。 有岡城に官兵衛が幽閉されると出入りの商人に紛れ潜入し囚われの主君に面会を果たし、 有岡城落城の際は一番に土牢に駆けつけ官兵衛を救い出します。 また関ヶ原の戦いが起こると人質にされそうになった官兵衛、長政の両夫人を母里太兵衛と共に大坂の黒田邸より救い出し中津城まで送り届けています。

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【筑紫広門(ちくしひろかど)】(1556~1623)
筑紫氏は筑紫(筑紫野市南部)に居を構えた豪族で、鎌倉時代から南北朝時代にかけては少弐氏の被官だったと考えられています。おそらく筑前に侵攻してきた大内氏に圧迫された少弐氏と共に肥前東部に追われ養父(佐賀県鳥栖市北部)辺りに居を移したのかもしれません。後に筑紫氏は大内氏に従い、大内氏の滅亡後は毛利氏に同盟し豊後の大友氏と戦います。

筑紫広門は父・惟門が大友氏に討たれたため筑紫氏を継ぎ大友氏に表向き従いますが、「耳川の戦い」で大友氏が大敗を喫すると反旗を翻し、龍造寺氏や秋月氏と連繋し筑前の大友氏の諸城を攻略します。しかし、豊臣秀吉が大友氏の救援の動きを示すと大友の将・高橋紹運と和解し、九州制覇を目指し北上する島津氏の大軍に抵抗しますが力及ばず降伏し、筑後の大善寺に幽閉されます。 その後、秀吉が九州に乗り込んで来ると、動揺する島津方の兵士の隙を突き大善寺を脱出し旧領へ復帰し、その功を認められ秀吉より筑後に領地を与えられます。 その十数年後の「関ヶ原の戦い」では徳川家康により改易され、晩年は肥後の細川家で余生を過しました。


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【母里太兵衛(ぼりたへえ)】(1556年~1615年)
黒田家の武将。「黒田節」は太兵衛が大杯の酒を呑み干し福島正則より名槍「日本号」を受け取った出来事を唄にしたものです。 太兵衛はこの唄で詠われた「日本号」を朝鮮役で太兵衛の窮地を救った後藤又兵衛へ送ったといわれます。 そして「大阪夏の陣」で又兵衛が討死すると、太兵衛もまた時をおかず死去しています。

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【後藤又兵衛(ごとうまたべえ)】(1560年~1615年)
関ヶ原の戦いなどで名を上げ黒田家を代表する武将となりますが、黒田如水の没後、藩主・長政とそりが合わず福岡藩を出奔します。 又兵衛の武名を惜しむ声は多かったもの黒田家に遠慮し召抱えようとする大名は少なかったようで数年間の浪人生活を送ります。 その後「大阪冬の陣・夏の陣」で久々に活躍の場を得た又兵衛は豊臣方の中心武将として戦国最後の戦場で華々しく散る事になります。

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【立花宗茂(たちばなむねしげ)】(1567年~1643年)
高橋紹運の長男として生まれ後に嫡男のない立花道雪に請われて養子となり立花家を継ぐことになります。 島津軍の筑前侵攻では父・紹運が岩屋城で玉砕するものの、宗茂は香椎北東の立花山城に篭り豊臣秀吉の援軍が九州に上陸するまで城を守りきります。 その後、数々の武功を上げ秀吉より柳川13万石を与えられますが、関ヶ原の戦いでは秀吉への恩義から西軍についたため改易され浪人となります。 しかし20年後には許され柳川の大名として復帰することになりました。武勇のみではなく人間性にも優れた武将だったようですが、 これには父・高橋紹運の生き方が大きく影響してたのではと思われます。

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【黒田長政(くろだながまさ)】(1568年~1623年)
豊臣秀吉の参謀・黒田官兵衛(如水)の長男として生まれます。十歳の頃に父・官兵衛の謀反が疑われ織田信長に殺されかけますが、 秀吉の部下・竹中半兵衛に匿われ命を取り留めます。それから二十数年後に秀吉が死去し「関ヶ原の戦い」が起こると、 徳川家康の東軍に属します。この戦いは小早川秀秋の寝返りで東軍が勝利を大きく引き寄せたといいますが、 この「寝返り」を事前に根回ししたのが長政だといわれています。戦後、長政は筑前五十二万石を与えられ名島城に入ります。

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【小早川秀秋(こばやかわひであき)】(1582年~1602年)
豊臣秀吉の正妻ねねの甥にあたり、義父・小早川隆景の隠居に伴い入れ替わりで筑前の名島城に入ります。 「関ヶ原の戦い」では西軍から東軍へ寝返り、勝敗に大きく影響を与えたといわています。 戦後は加増され岡山に移りますが、「裏切り」の汚名を拭いきれず家臣とともに苦悩の日々を送ったと想像されます。 そして二年後には若くして死去します。 この秀秋の「関ヶ原」での行動には過去の出来事と戦いに至るまでの流れより同情的な見方も少なからずあるようです。 ところで博多三大祭のひとつ「博多どんたく」は昔「松ばやし」と呼ばれ正月の祭りだったそうですが、 この「松ばやし」の行列が小早川秀秋の名島城に入った記録が残っているようです。

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[ 江戸 ]


【栗山大善(くりやまだいぜん)】(1591年~1652年)
黒田官兵衛の信頼の厚かった栗山利安の息子。 栗山大善は第二代藩主の座に黒田長政の長男の忠之を就けますが、 その後、何かと行動に問題のある藩主・忠之との間に軋轢を生じ収拾不可能となると幕府に訴え出ます。 幕府は徳川家と黒田家との関係を重視し大善を南部藩預けとし、忠之の寵臣を高野山への追放し事を収めました。 これが「黒田騒動」ですが栗山大善は南部藩で余生を過ごし20年後に没することになります。 この時の藩の存続を危うくした大善の行動に関しては肯定派と否定派に分かれたようです。 この事件との関係はないのでしょうが、貝原益軒は「筑前国続風土記」で 甲羅干しをしていた大亀をたまたま通りかかった栗山大善が得意の鉄砲で撃ち殺したため大洪水が起こったという伝説を紹介しています。

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【黒田忠之(くろだただゆき)】(1602年~1654年)
行動に何かと問題のある嫡男・忠之は黒田藩の後継者から外されそうになりますが、栗山大善の支援によりその立場を守ります。 しかし初代藩主・長政の没後に藩主の座についた忠之は栗山大善と不仲になります。 二人の関係が泥沼化すると忠之はついに大善から幕府へ訴えられます。 改易が相次いでいた時期でもあったため黒田藩も取り潰しの憂き目に合いますが、 幕閣の配慮により大善は南部藩預かりとなりことは収められました。

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【黒田長興(くろだながおき)】(1610年~1665年)
黒田長政は後継者に三男の長興を立てようとしますが、栗山大善ら家臣団の猛烈な反対に合い諦め、長男・忠之を後継者とします。 ただ忠之のみに黒田藩を託すことに不安を抱いた長政は、長興に五万石を与え分藩させることにしました。 これが秋月藩になります。

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【宮崎安貞(みやざきやすさだ)】(1623年~1697年)
広島の出身で一時、福岡藩へ仕えますが5年ほどで自ら浪人し、周船寺村で農業の研究に没頭します。 そして晩年には名著「農業全書」を貝原益軒の協力で出版します。この書は施政者や農業関係者より絶賛され、 その後の農業に大きな影響を与えたといわれています。

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【貝原益軒(かいばらえきけん)】(1630年~1714年)
福岡藩の儒学者で、学才は多岐に渡りシーボルトからは「日本のアリストテレス」と評価されたという逸話もあります。 このページでも度々参照している「筑前国続風土記」の他「養生訓」、「大和本草」、「女大学」などの有名な著書が多数あり、 また宮崎安貞の「農業全書」では序文を書いています。





【貝原東軒(かいばらとうけん)】(1651年~1713年)
秋月藩士の娘で益軒の妻女。1668年に数え年18歳で39歳の益軒と結婚します。書・和歌の他、箏(そう・琴に似た楽器)や胡琴(こきん・中国から伝わった弦楽器)などの楽器にも通じていました。益軒の著作編纂を陰から助け、「女大学」を記述したのは東軒ではないかといった説もあります。益軒が没する前年に63歳で亡くなっています。

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【亀井南冥(かめいなんめい)】(1743年~1814年)
大阪で儒学や医学を学び1785年に福岡藩西学問所・甘棠館(かんとうかん)の館長となります。 この頃に志賀島で発見された金印を漢の光武帝より奴国王へ送られた「漢委奴国王印」と鑑定します。 これが現在、福岡市博物館に所蔵される金印です。 甘棠館は後に廃校となり学生は東学問所の修猷館に統合されますが、 私塾亀井塾として亀井学派は存続し門下生から平野國臣や高場乱、広瀬淡窓などを排出しています。 広瀬淡窓は天領日田に「咸宜園(かんぎえん)」を創設した人物でそこからは高野長英、大村益次郎、上野彦馬などが出ています。





【高山彦九郎(たかやまひこくろう)】(1747年~1793年)
江戸中期から後期にかけての草莽の勤皇家で「寛政の三奇人」のひとり。40代半ばで九州を遊歴し王政復古を説き、幕府を批判しますが幕府の圧力があったのか久留米に滞在中に自刃し最期を迎えます。しかしその思想は70年後の尊王攘夷運動に大きな影響を与えます。長州で維新の原動力となった志士たちを育てた吉田松陰の号は彦九郎の諡(おくりな)「松陰以白居士」より取られたものと言われています。

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【シーボルト(しーぼると)】(1796年~1886年)
1823年、長崎に来航した翌年に鳴滝塾を開き、患者の診察治療活動や集まった塾生に西洋医学、科学を教授します。 これにより鳴滝塾からは伊東玄朴、高野長英、二宮敬作、伊藤圭介の他に幾多の人材が輩出されます。 またの使命とする日本の動植物の情報を収集していますが、この時、貝原益軒の「大和本草」などの著作に触れ絶賛したといわれます。 1826年の江戸参府の際は、長崎街道を通り、 原田宿(現福岡県筑紫野市・大蔵春実系原田氏派生の地)では目の前を通り川に飛び込むカワウソと遭遇し、 山家宿(同じく筑紫野市)では黒田藩の別荘に宿泊し、めずらしい鉱物や化石を鑑賞したと日記に記されているそうです。 また1828年には福岡藩主・黒田斉清の訪問を受け「本草学」について質問攻めに合っています。 斉清はこの時の問答を部下に命じ「下問雑戴(かもんざっさい)」という書物で後世に残しています。 シーボルト自身は筑前に長逗留する事はありませんでしたが、この地には強い印象を感じていたのかもしれません。
-参考・引用「ちくしの散歩」(筑紫野市のページ)-


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[ 幕末・維新 ]


【野村望東尼(のむらもとに)】(1806年~1867年)
幕末の混乱期に、僧・月照や高杉晋作を自邸に匿います。乙丑の獄(いっちゅうのごく)では糸島半島の西約4キロの「姫島」に流されますが、 高杉晋作の意を受けた福岡脱藩の志士の手で「姫島」を脱出し下関へ逃れます。





【黒田長溥(くろだながひろ)】(1811年~1887年)
島津藩主の重豪(しげひで)の十三男で、黒田家に養子として入ります。 開明的な藩主で蘭学を取り入れ中洲には反射炉を建設するなどしています。 しかし1865年の「乙丑の獄」で筑前勤王党の弾圧を行い勤皇派を一掃します。 弾圧の原因はハッキリしていないのですが、 勤王党の過激な一派が長溥の重臣を暗殺した二つの事件が一因であるのは間違いないようです。 結果的にこの弾圧が明治以降、福岡藩に大きな影を落としていくことになるのです。 勤王派を尊重しながらも、幕府へも気を配らなくてはならない黒田藩の歴史的な事情がこの藩主の肩に重くのしかかっていたのかもしれません。

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【月照(げっしょう)】(1813年~1858年)
「安政の大獄」で幕府より追われる月照は西郷隆盛と共に薩摩に逃れようとします。 そして下関で西郷と別れた月照は筑前で野村望東尼の「平尾山荘」や太宰府の宿屋「松屋」に匿われます。 その後、平野國臣の案内を得て薩摩に入り西郷と再会しますが、 薩摩藩は月照の受け入れを拒否したため錦江湾で西郷と共に入水し亡くなりました。 西郷は助けられましたが死亡したことにされ極秘裏に奄美大島に流されました。

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【真木和泉(まきいずみ)】(1813年~1864年)
久留米藩の尊皇攘夷の志士で攘夷派の公卿に強い影響力を持ちますが、 「八月十八日の政変」で長州藩が京都を追われると長州派の七卿に下関まで同行します(「七卿落ち」)。 そして翌年には長州軍の一部隊として「禁門の変」に参戦しますが、 戦況が不利になると天王山に登り同士16名と共に自刃し志半ばで一生を終えることになります。





【平野國臣(ひらのくにおみ)】(1828年~1864年)
朝廷や長州藩、薩摩藩に広い人脈を持った名の知れた倒幕勤皇の志士で、のちに「寺田屋事件」「生野の変」に関わります。 「禁門の変」の時に捕らわれていた京都六角獄で斬首され36年間の人生を終えてます。

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【月形洗蔵(つきがたせんぞう)】(1828年~1865年)
儒学者の家庭に育ち、王政復古の思想を掲げ参勤交代の不要を藩主黒田長溥に建白しますが、 これが長溥の怒りを買い蟄居させられます。しかし三条実美ら五卿福岡遷座の際には罪を許され、 下関まで五卿を出迎えに行くことを命じられています。

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【篠原泰之進(しのはらたいのしん)】(1828年~1911年)
筑後浮羽の出身で関東で攘夷活動に走ります。その後、伊東甲子太郎に従い京都にて新選組に加入しますが、2年と数ヶ月後には伊東ら同士と共に御陵衛士(ごりょうえじ)を創設し新選組より離脱します。新選組はこの行動を表向きには了承しますが、脱隊を原則違反とする新選組の近藤勇、土方歳三らは伊東甲子太郎を謀殺、遺体を引き取りに来た御陵衛士を待ち伏せし3名を斬殺します。多勢に無勢で篠原ら数名はその場から逃走し薩摩藩に匿われますが、その一ヵ月後には新選組への報復となる銃撃事件を起こし近藤に重傷を負わせます。
「鳥羽伏見の戦い」以後は相楽総三の赤報隊(せきほうたい)に属し戦いますが、赤報隊は偽官軍の汚名を着て相楽は斬られ篠原らは獄に繋がれます。妻女らの助命活動で後に許され以後は薩摩軍に属し戊辰戦争を戦いました。






【加藤司書(かとうししょ)】(1830年~1865年)
西洋諸国の介入を招く恐れのある国内対立を早期に収束させるため、 西郷隆盛と共に第一回長州征討軍解兵に尽力します。しかし一年後には藩内・佐幕派の台頭で「乙丑の獄」が起こり、 博多の天福寺で切腹することになります。 ちなみに福岡藩と土佐藩の成り立ちは「関ヶ原の戦い」より徳川家の天下平定に協力し、外様ながら譜代以上の待遇を得ていることで類似しています。 また幕末には勤王党が活発な活動をし、弾圧された面でもよく似てますが、ただ一つ土佐勤王党が郷士を中心として組織されたのに対して、 筑前勤王党が家柄に関係なく組織された面に相違があるようです。この加藤司書も上流武士の出身で筑前勤王党の中心人物となり、家老職にも就いています

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【高場乱(たかばおさむ)】(1831年~1891年)
男子として育てられた男装の女医で、かつ教育者。金印の鑑定をした亀井南冥の学派の塾に学び、後に興志塾を起します。 「福岡の変」には塾生から多く者が参加しています。そして1889年に教え子の来島恒喜(くるしまつねき)が大隈重信暗殺未遂事件をおこし自決すると、 来島の死を嘆きながらも「匹夫の勇」と厳しい言葉を投げかけています。

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【早川勇(はやかわいさむ)】(1832年~1899年)
月形洗蔵と共に五卿の太宰府入りを実現し、薩摩と長州の仲を取持つため奔走します。 そして同じ大庄屋の出の中岡慎太郎とは強いつながりを持ち、西郷隆盛との会談を取持っています。 このような勇らの地道な努力が後の薩長同盟へつながってゆくのです。 勤皇党弾圧の「乙丑の獄」では幽閉されますが、中心的な人物の中で唯一死罪を免れのち明治政府へ出仕しています。

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【古屋佐久左衛門(ふるやさくざえもん)】(1833年~1869年)
筑後古飯(ふるえ)の庄屋の生まれで医学を志し大阪に出ますが、医学が性に合わない事を悟り、江戸に向かい英語や洋学を学び、洋学書の翻訳などを手がけます。また婿養子で古屋家を継ぎ幕臣となります。戊辰戦争では坂本龍馬を斬ったとされる今井信郎(のぶお)と共に衝鋒隊を率い北関東、越後、会津、箱館と転戦し最期は官軍の艦砲射撃に合い被弾、37歳で幕府に殉じます。
語学堪能で神奈川奉行所で通訳していた頃に横浜で町屋の子供がイギリス人の乗った馬に蹴られ大怪我をする事故が起こりますが、泣き寝入りになりそうなところを佐久左衛門がイギリス領事館に乗込み交渉、治療費を出させたと言う逸話を残しています。






【宮崎車之助(みやざきしゃのすけ)】(1835年~1876年)
「秋月の乱」の中心的な人物ですが決起には消極的だったようです。豊津藩の反政府勢力と合流するため豊津に向いますが、 そこで乃木希典の指揮する小倉の歩兵第14連隊の攻撃を受け撤退します。 そして決起より4日後には乱の中心となった人物6名と共に自刃することになりました。

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【坂本龍馬(さかもとりょうま)】(1836年~1867年)
勝海舟が失脚し、1865年 神戸海軍操練所が閉鎖されると、龍馬は一旦、鹿児島に身を寄せます。 そして5月には太宰府を訪れ五卿と面談します。この時に五卿の一人、東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)は龍馬の印象を 「偉人なり、奇説家なり」と評しています。龍馬の行動は慌しく、その数日後には下関で桂小五郎と面会し薩長同盟を図りますが、 西郷隆盛が下関に現れなかったため、この時の同盟締結は失敗します。同盟が成ったのは翌年1月で、 情勢は倒幕に向かって一気に動き出しますが、その翌年1867年11月、 京都・近江屋で中岡慎太郎と共に刺客に襲われ維新を迎えることなくその生涯を終えることになりました。

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【三条実美(さんじょうさねとみ)】(1837年~1891年)
長州派の公卿で「八月十八日の政変」で長州に逃れた七卿の内の一人でその中心人物です。 維新後には征韓論問題の心労で休養する事態に陥りますが、1885年には内閣総理大臣を臨時に勤めました。

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【中岡慎太郎(なかおかしんたろう)】(1838年~1867年)
土佐の志士で五卿に随い太宰府に入り、五卿の衛士として仕えながら薩長同盟を画策します。 そして1864年から約3年間、太宰府、長州、京都間を忙しく行き来し、 薩長の有力者や土佐の同士たちと面談、坂本龍馬と共に薩長同盟を実現させます。 しかし大政奉還から一ヶ月後、京都・近江屋で刺客に襲われ龍馬と共に暗殺されることになります。

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【グラバー(ぐらばー)】(1838年~1911年)
イギリス商人で倒幕派に武器の販売なども行いますが、維新後は自分の会社の倒産を経験します。 基本的に日本は好きだった様で、日本人女性と結婚し日本で終焉を迎えます。 このグラバー氏、太宰府天満宮を数回訪れてその度に「麒麟像」を長い間、眺めていたという話が伝わっています。

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【高杉晋作(たかすぎしんさく)】(1839年~1867年)
長州藩士で吉田松陰の松下村塾に学び、幕府に抵抗するため奇兵隊を創設した人物です。幕府の第一回長州征討後は、 長州藩保守派から逃れるため太宰府五条の酒蔵「中村酒屋」や野村望東尼の「平尾山荘」に匿われています。 のちに筑前勤皇党弾圧の「乙丑の獄」で島流しにされた野村望東尼を救い出し下関に迎えています。

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