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【荒生田神社】(北九州市八幡東区)
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 | 荒生田神社 |
当荒生田神社は二つの社が合併して出来た神社である。
明神社は字川ノ上(現在八王子橋付近の山にあり、天平十二年(西暦740)
板櫃川の戦で敗れた藤原広嗣の霊を祀った。初祀の時期は定かでないが、
おそらく十一世紀平安末以降と推定され、天保四年(西暦1832)大暴風雨により社殿は倒壊した。
藩政期には崇敬の主力は水神社へと移行しつつあった。
水神社は彌都波能売命(みづはのめのかみ)を祀り字岩渕に鎮座、
慶長二年(西暦1597)の時の庄屋によって岩渕堰取水口(現在七条端下)
の守護神として祀られ、元禄年間(西暦1688)現在地に茅葺の神殿に茅葺の拝殿、
少彦名命(すくなびこのみこと)を併せ祀り、神社のていさいは整って荒生田村の産土神
(うぶしなのかみ)となった。
明治政府は神社合祀政策を進め 荒生田村においても明治三十五年、明神社と水神社を合併し到津八幡宮の末社として社名を荒生田神社と改稱す。
爾后(じご) 昭和十一年の大改築で現在の赤銅葺欅造り社殿が完成した。
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荒生田神社の案内板より
738年、時は奈良時代中期、大宰府に左遷された藤原広嗣はその2年後、政権中枢にある玄昉と吉備真備を弾劾するため兵を挙げ、板櫃川(いたびつがわ・北九州市八幡東区)で官軍と対峙しますが、官軍の将・佐伯常人(さえきつねひと)との論戦で大義がないことを指摘されると兵を引き、西へ敗走することになります。
この「板櫃川の戦い」の舞台となったのが、荒生田神社の裏手を通り到津に流れる板櫃川の一帯といわれています。
【鎮西八郎為朝屋敷跡】(田川・香春町)
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 | 「鎮西原為朝屋敷」跡の碑 |
【鎮西八郎為朝屋敷跡の碑】
県立田川農林高等学校の校歌に『鎮西原に為朝の居城の跡を偲びつつ』
とありますが、
「応永戦乱記」にあるように、この地は平安時代末期、
仁平二年(1152)源為義の八男為朝(鎮西八郎為朝)が豊後国臼杵から移住した折館を構えた所であり、
今でもこの地を鎮西原と云います。
為朝は幼時より剛勇で聞こえ、殊に剛弓の射手として知られており 北九州を支配した武将です。
仁平三年一月には源氏の氏神である鎌倉の鶴岡八幡宮の御分霊を勧請し、
この時為朝は九州の主だった武将を率いて、当町宮尾の鶴岡八幡宮に参詣しています。
久寿元年(1154)故あって父為義の為に帰京しています。従って此の地には僅か二年足らずの在城でしたが、
嫡子鶴王丸に阿蘇忠国を後見として守らせ、八代の孫、公朝は遂に応永五年(1398)正月、嫡子冠者丸と共に、
大内盛見に下って、当地の源氏は滅亡したと云われています。
香春町教育委員会
贈 田川ライオネスクラブ
平成四年五月二十九日
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「鎮西原為朝屋敷」跡の案内板より
自ら鎮西と名乗り九州で暴れまわった源為朝はその狼藉を理由に京都に呼び戻されますが、そこで翌年に起こった「保元の乱」に巻き込まれます。
父・為義に従い平清盛や兄・源義朝を相手に強弓で奮戦しますがついに破れ、伊豆大島に流されます。
しかしそこでも為朝は洒落にならないぐらい暴れまわり、朝廷の指示で派遣された軍に攻められて自害することになりました。
ところで右腕より左腕の方が10cm以上長かったといわれる為朝ですが、これは幼少から弓の鍛錬を積んだのが関係しているのでしょうか?
【貝原益軒先生学習地の碑】(飯塚市八木山)
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 | 貝原益軒先生学習地の碑 |
【貝原益軒学習の碑】
この約40坪の宅地は貝原益軒か8才から11才(1638~1641年)までの幼年時代を過ごした住所です。 貝原益軒(1630~1714年)は福岡藩士貝原寛斎の子として福岡城内で生まれ、 忠之・光之・綱政の三君に仕えました。8才の時、父に従って飯塚市八木山の知行所に移り住みました。ここで父や兄から書字を学び、19才で忠之の御納戸御召料方となりました。しかし、2年後に忠之の怒リにふれ、27才の時父のとりなしで光之に仕えるようになるまで、長い浪人生活を送りました。その後知行二百石となり、藩主・世子に待講し、藩士に授講しました。 光之の代に始まる藩文治主義改革のブレーンとして佐賀藩との国境問題に奔走、藩命により「黒田家譜」「筑前国続風土記」を編述し、また重臣にしぱしば諌言書を出しました。
医学者・儒学者・本草学者であり、また学問の他に、教育や経済の分野でも功績を残しました。 主な著書に「養生訓」「大和本草」「慎思録」「大疑録」などがあり、 その膨大な著書は多く平易で流麗な和文で書かれたので、よく大衆の間に普及しました。
飯塚市
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「貝原益軒学習の碑」の案内板より
【大分廃寺塔跡】(飯塚市大分)
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 | 大分廃寺塔礎石 |
国指定史跡 大分廃寺塔跡 (だいぶはいじとうあと)
所 在 地
指定年月日 昭和十六年十二月十三日
大分廃寺塔跡は、当地域で唯一の古代寺院の塔跡です。
塔跡は、保存状態が大変良く、塔の中心柱を支えた心礎(しんそ)を中心に
十七個の礎石がほぼ創建当時のままの良好な状態で残っています。
心礎は大変丁寧に作られており二条の排水溝が見られます。また、
心礎側面に見られる線刻(せんこく)は伽藍造営の基準線と密接に関連するも
のとみられます。
現在までの発掘調査の結果などにより、寺域を区画すると思われ
る溝と柵列(さくれつ)を検出し、その寺域は南北約九十四m・束西約百二m、大
分廃寺の建立は八世紀初頭(今から約手三百年前)と推定されま
す。また、心礎柱座の直径から計算すると、三十mを超える三重の塔
であったと考えられます。出土する古瓦は、新羅系と呼ばれる華麗
な瓦であり、当時大宰府から豊前への官道の中継地点として、文化
交流が盛んだったことがわかります。現在では塔跡以外は見ること
ができませんが、当時は七堂伽藍と言って塔・金堂・講堂などがそろ
った立派な寺院であり、その伽藍配位置は金堂を左に、塔を右に配
する、法起寺式(ほっきじしき)と推定されます。
飯塚市教育委員会 | | |
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大分廃寺塔跡案内板より
【馬ヶ岳城跡】(行橋市大谷)
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 | 馬ヶ岳 |
●馬ヶ岳城の歴史●
馬ヶ岳城は、行橋市とみやこ町の境に聳える標高216mの馬ヶ岳と、その山麓に築かれた中世の山城です。室町時代から戦国時代まで大内氏や毛利氏や大友氏などさまざまな勢力がこの城をめぐって合戦を繰り返しました。
九州平定の際に豊臣秀吉が宿泊した城であり、黒田官兵衛(孝高・如水)の九州最初の居城としても知られています。
今も残る山城のあと
馬ヶ岳には、土塁・堀切(ほりきり)・畝状竪堀群(うねじょうたてぼりぐん)などの山城の遺構が今も残っています。
西側の峰を本丸跡、東側の峰をニノ丸跡と呼んでおり、ニノ丸から北に下る尾根には、約700mにわたる土塁や、50本以上の畝状竪堀群が残ります。馬ヶ岳城は土塁などの防御施設が山麓部にもあり、中世から近世への城郭の変遷を考える上でも貴重な史跡です。
行橋教育委員会 | | |
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馬ヶ岳登山駐車場にある「馬ヶ岳城へのルート」案内板より
写真の台形型の大きな山頂部が本丸の部分。左の小さな山頂部が二の丸のあったところになります。
【御所ヶ谷神籠石】(行橋市津積)
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 | 周辺の史跡 |
御所ヶ谷神籠石と周辺の史跡
御所ヶ谷神龍石(ごしょがだにこうごいし)は7世紀に国外からの侵攻に備えて築かれた古代の山城跡で、面積 35万平方メートル、全周3kmにおよぶ大規模な遺跡です。切石の列石を連ね、その上に土を積んだ城壁が山を巡っています。列石の多くは埋もれていますが、東門の南側などで見ることができます。城内には建物の礎石や貯水池と推定される遺構もあります。
この城には7つの城門があり中でも排水口を備えた中門の石塁は壮観で、1300年前のすぐれた土木技術を目の当たりにすることができます。
また神籠石のなかには景行天皇を祀った神社があり、また周辺には私塾水哉園(すいさいえん)を開いた村上仏山(ぶつざん)ゆかりの蔵詩巌(ぞうしがん)、仏山の師、定村直栄(なおしげ)のいた大島八幡神社や定村家の墓地などの史跡もあります。 | | |
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【豊前国府政庁跡】(京都郡みやこ町)
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 | 豊前国府政庁跡 |
豊前国府政庁跡
豊前国府は、ここ福岡県京都郡みやこ町国作(こくさく)・
惣社(そうしゃ)地区に広がる奈良~平安時代の地方都市で、
当時は豊前国の政治・経済の中心地として繁栄していました。
また、当国府の政庁の南方約350mには古代の官道が北西-南東方向に走り、
さらにその南方約450mには奈良時代に創建された豊前国分寺があります。
政庁の南西に隣接する惣社八幡神社は、
平安時代に国司が参拝した豊前国の総社です。
豊前国府の中心部の政庁には8世紀から12世紀ごろまで
官衙(役所)の主要建物が建設されていましたが、
ここでは発掘調査で確認された第Ⅲ期(9世紀後葉~10世紀後葉)
前半の中門跡・東脇殿跡・築地塀跡などを中心に復元しています。
この一帯は後世の開墾などで地形が変化していますが、
政庁の大きさは東西の幅約79.2m、南北の長さ約105.0mでした。
発掘では須恵器・土師器などの日常の食器以外にも、緑釉(りょくゆう)
陶器・灰釉(はいゆう)陶器などの国産高級陶器、青磁・白磁など中国から
の輸入磁器、各種の硯、墨書土器、木簡、瓦などが出土しています。 | | |
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「豊前国府政庁跡」の案内板より
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 | 豊前国府政庁中門跡 |
中門跡
平城宮に代表される古代の役所は、南側の入口に門が建てられていました。
豊前国府の政庁の場合も同様で、この場所から東西の長さ6.8m、
南北の幅3.4mの堀立柱建物跡が見つかり「八脚門」という形式の門(中門とよばれるも
の)があったものとみられています。
建物は柱の直径が30cm前後で、柱穴は正方形で1辺が1mもあり、
豊前国府の建物の中では比較的大きなものでした。
またこの中門の南側の築地塀付近には南門も設けられていたものと考えられています。
ここでは土盛りの基壇の上に築かれていたとみられる中門の柱下部(基礎部分)を復元しています。 | | |
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「豊前国府政庁中門跡」の案内板より
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 | 築地塀(復元) |
築地塀(復元)
豊前国府の第Ⅲ期(9世紀後葉~10世紀後葉)の政庁は、10世紀中ごろに一度建てかえられています。
第Ⅲ期の前半代の政庁は築地塀によって南北に長い長方形に区画されていたことが発掘調査で確認されています。
第Ⅲ期後半代では政庁内部の建物は明らかになっていませんが、
この場所で同時期の築地塀の雨落ち溝が発見されています。
この場所は後世の開墾等による地形の変化が少なく、周囲にくらべ1~1.5mほど小高く残されていました。
この高さが平安時代の国府政庁が建築されていた、地表の高さに近いものと想像されます。
発見された雨落ち溝は、4.1mの間隔をおいてほぽ南北方向に並行して走る二条の大構で、
西側の溝は幅1.1~1.9m・深さ0.35m、東側の溝は幅1.3m前後・深さ0.25mでした。
長さはともに6m程度が残っていて、溝の断面は逆台形でした。
溝の内部からは土師器(はじき)の椀・杯(つき)・皿や緑釉陶器(りょくゆうとうき)が出土しています。
古代の役所や寺院では、回廊や築地塀・板塀・柵列などでその敷地を区画しています。
しかし実際に発掘調査で確認された築地塀跡を復元した例はまだ少なく、平城宮跡(奈良県)や讃岐国分寺(香川県)などで部分的に当時の姿が復元されています。
豊前国府跡でも今回第Ⅲ期後半代の雨落ち溝の位置(左隣の築地塀)に築地塀を復元しました。
この築地塀の復元方法は塀本体を三和土(さんわど)の手搗(てつ)き版築(はんちく)でつくり、上部は本瓦葺(ほんかわらぶき)で仕上げています。
大きさは基底部の幅が1.38m、高さが3.78mで、長さ2.4m分を復元しています。 | | |
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「豊前国府政庁築地塀(復元)」の案内板より
【門司城跡】(北九州市門司)
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 | 門司城の碑 |
門司城(門司関山城・亀城)
門司城は、最初平知盛が源氏との合戦にそなえて、
長門国目代紀井通資に築城させた といい伝えられている。
寛元二(1244)年、下総前司親房が平家残党鎮圧の下知奉行として、
鎌倉幕府より豊前国大官職に任ぜられて下向。
のち門司六ヶ郷と筑前国香椎院内などを拝領した。
親房の子孫は地名により門司氏を称し、
門司城を本城に領内に足立・吉志・若王子・三角山・金山の五支代を構えてそれぞれ一族が配置された。
門司氏はその後およそ三百五十年にわたって北九州の地に続いた。
その間、南北朝時代には門司氏も両派に分かれ、
当城には北朝武家方の吉志系門司左近将監親尚か拠り、
一方南朝宮方の伊川系門司若狭守親頼は猿喰城に籠り、骨肉の争いもあった。
室町時代末になると、門司半島は豊後大友氏と大内氏、
大内氏滅亡後はかわって毛利氏が争奪するところとなり当城はその渦中におかれた。
ことに大友・毛利両氏による永禄の門司城合戦は壮絶をきわめ、
ちなみに『後太平記』には 「昔、源平両家此処にて軍せしも 時こそ替れ是にけよも勝てじ」とその戦況を記している。
その後の門司城は、城主も入れかわりながら続いたが、
細川忠興の豊前入国後の元和元(1615)年、
一国一城の令により、およそ四百年におよぶその歴史をとじた。
北九州市教育委員会 | | |
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門司城跡の案内碑より
門司城跡の碑は山頂に、ここで紹介した案内碑は山頂のへ上る山道の途中に置かれています。

門司城跡のある古城山と関門橋
【伊能忠敬測量記念碑と常盤橋】(北九州市小倉北区京町)
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 | 伊能忠敬測量200年記念碑 |
伊能忠敬測量200年記念碑
江戸時代の測量家伊能忠敬は、50歳で商家の家業を長男に譲り第二の人生を志し、天文・暦学を学ぶ。寛政12(1800)年、55歳の時江戸より蝦夷地に向け測量の第一歩を踏み出した。以後17年の長きにわたり日本全国の測量を行い、我国初めての実測による当時世界最高水準の日本地図を完成した。この間の歩み四千万歩、地球一周分の距離に及ぶ。
九州には、忠敬64歳の時から高齢にも拘らず前後二回に及ぶ困難な測量作業を行った。
この小倉城下・常磐橋は、九州伊能測量の始発点であり、小倉の五街道(長崎街道・唐津街道・中津街道・秋月街道・門司往還)の起点として意義深き地点である。
ここに、伊能測量開始200年を記念しその偉大な業績を讃え、顕彰碑を建立する。
平成13年9月建立 寄 贈 伊能忠敬記念碑建設実行委員会
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| 現地にある案内板より
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 | 常盤橋 |
常盤橋の由来 北九州市
常盤橋は江戸時代の初め頃、小倉の城下町の東曲輪(主として町人が生活していた地域)と西曲輪(主として武士が生活していた地域)を結ぶ、重要な橋として架けられ、当初は大橋と呼ばれていました。
この橋の西勢溜(橋詰)が長崎街道の起点となっていたため橋の周辺は幕府役人や旅人の宿などが建ち並んでにぎわっていました。
参勤交代の大名や長崎奉行をはじめ、多くの人々がこの橋を渡っています。中でも有名なのがドイツ人医師シーボルトで、この橋を銅版画で紹介しています。
このように海と陸の玄開口として、九州の各街道すべてがこの大橋に連なり、九州における日本橋となっていました。
治水対策として川幅を広げるため橋の架け替えが必要になったのを機会に、コンクリートと同じ強さを持つ木材を使い、江戸時代の姿「木の橋」としてよみがえることとなりました。(平成7年3月完成) | | |
| 現地にある案内板より
【小倉城】(北九州市小倉北区城内)
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 | 天守閣より見た小倉城庭園 |
【小倉城】
細川忠興は、慶長五年(一六〇〇)関ヶ原合戦の功により、豊前国全域と豊後国二郡を領する三十万石(検地高三十九万九千石)の大名として入国、中津城に在城した。居城を小倉に移すため慶長七年これまでの小倉の城を廃して新しく築城をはじめ、その年の十一月、小倉城へ移った。
城の中心は、天守閣のある本丸と松ノ丸、北ノ丸で、これを囲むようにしてニノ丸、三ノ丸を配した。
天守閣の外観は五重、内部は六層(現天守閣は、四重五層)である。これは、五星目の内部が上下二段に分かれているためで、五重目の下段までは、白壁が塗り込まれ、上段は黒塗りで張り出しになっている。また天守閣の屋根には、破風がなく、当時この天守閣は、唐造りと称されていた。
城のすぐ東を流れる紫川を天然の濠とし、この川をはさんで東西に曲輪を設け、城下町をつくった。城郭の総構えは、約八キロメートルにもおよび、これを濠で囲み、街道に通じる八か所の門を設けた。
寛永九年(一六三二)細川氏は、肥後国に移り、替わって播磨国明石城主であった譜代大名の小笠原忠真が小倉城に入り、十五万石を領した。
第二次長州征伐戦の慶応二年(一八六六)八月一日、小倉藩は、田川郡に撤退する際、小倉城に火を放ち、城内の建物はことごとく灰じんに帰した。なお、天守閣は、天保八年(一八三七)の火災で消失、以降再建されなかった。
現在の天守閣は、昭和三十四年鉄筋コンクリートで、再建されたものである。
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小倉城の案内板より
【船迫窯跡 瓦工房建物】(築上郡築上町船迫)
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 | 瓦工房建物 |
瓦を製作した工房建物(奈良時代)
幅11.5m、長さ30mもある巨大建物が2棟並んで発見されました。しかし柱穴は10~15㎝と小さく、柱並びも悪いことから、豊前国分寺で使用する大量の瓦をここで製作し、乾燥、窯焼きまで保管するため、短期間に使用された、壁もない作業小屋的な建物と考えられます。
このような大型瓦工房建物跡は平城宮の瓦を生産した市坂瓦窯工房跡(上人ヶ平遺跡:京都府木津川市)に次いで2例目で大変貴重です。 | | |
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福岡県築上郡築上町船迫 船迫窯跡公園にある案内板より
【おこしかけ】(豊前市四郎丸)
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「おこしかけ」の由来
JR日豊線豊前松江駅の東南方に細長い台地があり、そこは「おこしかけ」の名で呼ばれている。
往古、神功皇后(じんぐうこうごう)が豊前路巡幸の折に、その地にあった石に腰を下ろしてしばしの休息をとったので、それ以来「おこしかけ」の地名がついたのだと言われる。眼下に豊前海を一望できる風光明媚な場所である。
神功皇后について語り伝えられるところによれば、四世紀の終わり頃、熊襲(くまそ)との戦いのさなかに夫の仲哀天皇が亡くなり、皇后は応神天皇を身ごもったまま、武内宿禰(たけのうちのすくね)と計って朝鮮半島は新羅(しらぎ)へ出兵したという。また帰国後は、応神天皇即位までの六十九年間摂政をつとめたとされる。
神功皇后は宇佐神宮の祭神である。大きな古墳の上に建つ宇佐神宮は三つの神殿が横に並んで本殿を形成しているが、神功皇后はその第三御殿に祀る(まつ)られている。
奈良時代以降、朝廷の宇佐八幡に対する崇敬はすこぶる篤(あつ)く、天皇の即位や国家の変事が生じた際には、奉弊(ほうへい)あるいは神意をうかがうために勅使(ちょくし)がしばしぼ宇佐へ派遣された。そして、松江の海岸線から四郎丸、田渕をへて宇佐へと向かう道筋は、その宇佐使が通る勅使街道にあたった。それゆえ、豊前の地には、大富神社の「勅使井」をはじめとして宇佐八幡にまつわる様々な歴史か刻まれ、「拝みの松」の和気清麻呂伝説や「おこしかけ」の神功皇后伝説など多くの伝説が今に語り継がれることになったのである。
豊前市教育委員会 | | |
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国道10号線沿いの「道の駅おこしかけ」に置かれている案内板より
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