黒田氏筑前入り



【黒田氏筑前入り】
(1600年)
東区の名島城址の碑

福岡藩初代藩主、黒田長政の父、黒田如水は切れ者の野心家として知られ戦国の世に豊臣秀吉の参謀として歴史の表舞台に登場しますが、その秀吉自身も如水の智略、策謀には舌を巻いたといわれています。 九州平定後、秀吉は如水の功績に見合うとはいえない低い石高の豊前中津12万石を与えますが、これは如水の才能を警戒したためといわれています。
1598年その秀吉が没すると、如水は「かようの時は仕合わせになり申し候。はやく乱申すまじく候。・・・」と吉川広家に手紙を書いています。 予定通り、1600年「関ヶ原の戦い」が起こると中津にあった黒田如水は兵を挙げて西軍についた武将の城を次々と攻め落とし、再び乱世が戻ってきたことに胸を躍らせます。
しかし「関ヶ原の戦い」に東軍として参加していた息子の黒田長政は戦いが終わるとすぐに父如水へ「西軍を打ち破り、戦いは一日で終わりました。」といった喜びの戦勝報告を行います。この手紙を読んだ如水は「長政のうつけ者が、戦いは長引けば長引くほど、面白くなったものを・・・」と嘆息し、再び乱世で一旗揚げる夢が潰えたことを悟りました。
その後、父子は再会し長政は「家康公は私の手を握りしめ、『関ヶ原の勝利は長政殿のお陰じゃ』と何度も感謝されました。」と嬉しげに伝えます。これを聞いた如水は「家康はお前のどちらの手を握ったのか?」と問いかけます。 意味不明な父の質問に怪訝な面持ちで長政は「右手です」と答えます。それに如水は「その時お前の左手は何をしておったのか」と言い放ったといいます。
これらの話は逸話の域を出ないのでしょうが、如水の人間性をもっともよく伝える話しなのかもしれません。ちなみに吉川広家への手紙は実際に残っているという事です。

「関ヶ原の戦い」の戦功により筑前52万を与えられた黒田長政は筑前名島城に入り福岡藩初代藩主となります。その後、博多の西に福岡城を新しく築城し1607年にはこの城に移ります。 父、如水の晩年は政治に口をはさむ事もなく号の通り「水の如く」生き、京都の藩邸にて没します。「関ヶ原の戦い」より4年後のことでした。

(2011.7.8)

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Author: fshiden