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【「帆柱石」伝説とは?】
(古墳時代)
  -大木が石化した珪化木-


帆柱石の碑と案内板
東区名島の海岸には「帆柱石」と呼ばれる。円柱形の化石があり国の天然記念物に指定されています。この石のネーミングは「神功皇后が三韓出兵の際に使用した軍船の帆柱が化石になった」という伝説から採られています。
実際のところは三千数百万年前の樹木が化石化したもので珪化木と呼ばれています。小倉城天守閣入口附近にも同様の珪化木が展示されており、こちらは響灘の海中より引き上げられたものになります。

小倉城の珪化木
これらの珪化木は「石炭になれなかった樹木」といわれ、炭化することなくそのまま石化してしまった樹木のようです。化学、鉱物学には疎く詳しい事はわかりませんが、状況から推測して筑豊地方に残る石炭と海辺や海底に眠る珪化木は元々、同じ原生林に繁殖した同類の樹木なのかもしれません。
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【夜に光を放つ石「魚眼精」】
(飛鳥時代)
  -願いを叶える如意宝珠-

中国の正史「隋書」の倭国の項には次のように書かれています。

「阿蘇山有り。故なく火起こりその石は天に接す。俗をもって異と為し、因って祷祭を行う。如意宝珠有り、その色青く、大きさは鶏卵の如く、夜はすなわち光り有り、云う、「魚眼精」也。」
(阿蘇山という山があり、突然 噴火しその噴石は天にも届く。この異変に人々は祈祷を行う。如意宝珠があり、その色は青く、大きさは鶏の卵ほどである。夜は光を放ち、「魚眼精」と呼ばれている。)

光る石といえば「蛍石」が思い浮かぶのですが、wikiで調べたところ、この石は加熱するか紫外線を当てることによって発光するようです。「魚眼精」が「蛍石」かどうかは想像するしかありませんが、この石の事は、阿蘇山の記事のすぐ後に記載されていることから九州のどこかの地下深くに眠る石なのかもしれません。福岡県朝倉郡には宝珠山という山が存在しており、ここら当たりに「魚眼精」が埋まっていれば面白い事になるのですが・・・。ただ当時の倭国の伝説がそのまま隋に渡り、そのまま見聞録として「隋書」に取り上げられてしまっただけの可能性も大いに考えられますので、採掘に行くのはちょっと見合わようと思います。


「如意宝珠」とは意を思いのままできる玉のことで、神社仏閣にある橋の欄干に飾られる玉ねぎの様な形をした装飾物はこの宝珠を擬して造られたものなので擬宝珠(ぎぼし)と呼ばれ、九段下の武道館の屋根に輝く玉ねぎもこの擬宝珠だと思われます。

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【筑紫に置かれた「漏刻」とは?】
(飛鳥時代)
  -中大兄皇子の水時計研究-

漏刻とは水時計の事ですが、中大兄皇子がこの漏刻の研究をしていた事はあまり知られていません。

大宰府政庁の東側の小高い丘(月山)には漏刻が設置されていたといわれ、皇子の母・斉明天皇の藁葬(こうそう・仮埋葬)の地の恵蘇八幡宮にも漏刻が置かれていたという事です。
現在ではその漏刻は残っておらず、また具体的な形状も伝わっていないようですが、段々に置かれた石桶に上段部の石桶から水を貯めて行き、一定量を超えた水は管を通して下段の石桶に流れ落ちる仕組みで、各桶に設置されたメモリのふられたフロートの浮く度合で時間を計る方法だった様です。数年前まで西鉄・太宰府駅前には漏刻のレプリカが置かれていたはずなのですが、もったいない事に現在では撤去されてしまった様です。
ところで奈良県の明日香村には斉明天皇の時代に作られたとされる酒船石遺跡があり、ここには放射状に溝が彫られた「酒船石」と言う巨石が存在しています。そしてこの巨石も中大兄皇子の漏刻研究に何らかの関係があるのではとの説があるようです。

日本書紀には「671年4月25日には漏刻を新しい台の上に置き鐘・鼓を打って時を知らせた。この漏刻は天皇が皇太子であった頃に自分でお造りになったものである。」といった記事が載せられているのですが、もしかしたら中大兄皇子は科学的な面に才能を発揮する理系の人だったのかもしれません。

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【博多が初の「透頂香」とは!?】
(1369年)
  -「ういろう」とはブランド名?-

妙楽寺「ういろう伝来の地」碑

「陳員外郎という者が1369年、元代末の乱をさけ博多に移住し、その後上京して将軍義満に種々の薬を献上した。義満はとりわけ透頂香(とうちんこう)を気に入り陳員外郎に京都西洞院に邸宅を賜ったが、その子孫が代々久しく博多と京都に住んで透頂香の製造法を伝える事となった。しかしいつの頃からか博多の家は絶えてしまった。また小田原の透頂香は、北條氏政の時、陳員外郎が家僕を小田原へ遣わし、透頂香を売らしたのが始まりである。透頂香は自家製の薬のため外郎(ういろう)と名付けられ、製造方法はこの二家より外に伝わる事はなかった。」

以上が貝原益軒の「筑前国続風土記」巻の四 博多の末項に記載される透頂香の内容です。 透頂香は外郎(ういろう)と記載されるもののお菓子の「ういろう」ではなく、元々は消臭剤で仁丹の様な形状をした薬だったようです。小田原では現在でも万能薬として透頂香が「ういろう」という名で売られているそうです。たぶん「ういろう」とは製品名ではなくブランド名だったのかもしれません。

そして益軒は記事の最後を「透頂香を日本にて製せしは、博多を初とす。」と締めています。






【「博多べい」ってどんな塀?】
(1587年)
  -戦乱で出た瓦礫の処分方法は?-

櫛田神社「博多塀」

九州を平定した豊臣秀吉は戦災で荒廃した博多を復興するため「博多町割り」を行います。 しかし新しい町並みを造るにあたって頭を悩ましたのが、戦災後の街中に残る大量の瓦礫でした。そこで博多の人々はこの瓦礫を新しく建てる塀に埋め込みました。これを「博多べい」と呼びます。 現在、櫛田神社には嶋井宗室の屋敷跡の「博多べい」が移築され保存されています。屋外に展示されていますので観光客の方も気軽に見ることができ、当時の博多復興の様子を偲ぶことができます。上の写真は名所旧跡のページの「博多べい」碑文にある「但し右方は断面を表す。」の断面部で、粘土と埋め込まれた瓦が断層になっているのが分かります。

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【「日本号」ってなに?】
(1596年)
  -戦国史を背負う名槍-

光雲神社「母里太兵衛像」

「日本号」とは、大杯になみなみと注がれた酒を飲み干した母里太兵衛に福島正則が贈った名槍の名前です。 この槍は、元々は天皇家の所蔵で足利義昭へ下賜され、織田信長、豊臣秀吉、福島正則、母里太兵衛と渡ります。その後、朝鮮の役で太兵衛の窮地を救った後藤又兵衛へ送られますが、藩主黒田長政と折り合いが悪かった又兵衛は太兵衛の弟宅にこの槍を残して福岡藩を出奔します。 その後、後藤又兵衛は「大阪夏の陣」で豊臣方中心武将として真田幸村と共に戦国最後の戦場で華々しく散ることになります。
この槍は渡り歩いた面々から判断しても、戦国の歴史を背負った「国宝」級の名槍といえるでしょう。「日本号」は現在、国宝「漢委奴国王印」(金印)と共に福岡市博物館に所蔵されています。

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【茶器「楢柴」の事】
(戦国時代)
  -博多の豪商・嶋井宗室が所有した茶器-

豊臣秀吉に対抗し島津氏に属して戦った秋月種実は、秀吉軍の九州上陸で勢いづいた立花宗茂の兵に追われ秋月に籠もります。そして秀吉自身が九州に乗り込んで来ると、種実は息女と天下の茶器「楢柴(ならしば)」を秀吉に差し出し降伏します。秀吉はこれを受け入れ種実は日向に転封される事となり、取り潰しを免れました。
秋月氏の窮地を救ったこの茶器「楢柴」は元々、博多の豪商・嶋井宗室が所有したもので、豊臣秀吉や大友宗麟から所望されるも譲らなかったといわれる一品です。秋月種実も「楢柴」をどうしても手中に収めたく使者を幾度となく送りますが、宗室はどうしても手放そうとしなかったために、遂に武力で奪おうとします。これに宗室はとうとう諦め、「楢柴」を譲り渡すことにします。種実の使者は宗室邸に来訪し、大豆百俵と引き換えに「楢柴」を持ち帰りますが、宗室は使者が去った後に、この引渡しに使用した部屋を打ち壊したといわれています。混乱期の商人たちは物を右から左へ動かすだけで巨額な利を得ていたといったイメージが強いのですが、実際は戦国の豪商たちも乱世を生き抜くのが容易でなかったことを伝える逸話だと思われます。

その後「楢柴」は豊臣家から徳川家へと渡りますが、1657年の明暦の江戸大火で行方知れずとなったと言うことです。

-参考「古代の都市・博多」(朝日新聞福岡総局編/葦書房)-

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【太宰府天満宮の「麒麟像」】
(1852年)
  -トーマス・グラバーと麒麟像-

太宰府天満宮の「麒麟像」

太宰府天満宮の境内には、「麒麟像」があります。私も子供の頃からその像を知っていましたが、単なる写実性の高い動物像だと思っていました。 学生の頃にこれが中国の空想上の動物「麒麟」だと知りましたが、その写実性?の高さから、西洋美術を学んだ芸術家に依る最近の作品だろうという思いは変わりませんでした。
最近になってこの「麒麟像」が1852年に寄贈されたものと知り「ヘーッ!」驚いたことがありました。
1852年といえば幕末、黒船が来航する1年前のこと、当然、日本は鎖国中。中国で製造されたものが入ってきたのか、蘭学を勉強した芸術家によって鋳造されたのか、ネットで調べたのですが、残念ながら結論は出ませんでした。

ところで、この「麒麟像」には、おもしろい逸話があるようです。 長崎のイギリス人商人のトーマス・グラバー氏は五卿の側付きの志士たちに会うためか(明治に入ってからか?)、太宰府天満宮を数回訪れています。その度にこの「麒麟像」を鑑賞していたそうです。本当の話かは不明ですが、グラバー氏はこの「麒麟像」をどうしても欲しくなり、宮司さんに譲ってもらえないかとお願いしたという話があります。 この「麒麟像」現在も天満宮に現存することを考えると、宮司さんが「これは売り物ではありませんし、施主さんに失礼になりますので・・・」と丁重にお断りした情景が想い浮びます。
しかし「麒麟像」の事が心の片隅から離れないグラバー氏は、その後、アメリカ人のビール会社を引継ぎ社名を「ジャパン・ブルワリー・カンパニー」として、新ブランド「キリンビール」を発売しました。この会社が発展して現在のキリンビールとなったいうことです。
もしかしたら、ラガービールのラベルの絵柄は、天満宮の「麒麟像」がモデルなのかもしれないと思うと、福岡人としてはチョットうれしい気分になってきます。

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【「平野國臣紙撚文書」とは?】
(1862年)
  -筆がなけば紙で書く-


福岡市博物館の紙撚文書
「囹圄(れいぎょ)和歌集」
平野國臣は西郷隆盛、真木和泉の他、「池田屋事変」に斃れた宮部鼎蔵、新選組の元をつくった策謀の士、清川八郎、当代随一の開明家、佐久間象山を暗殺した過激攘夷の志士、川上彦斎などとも交わりをもち、当時も名の知れた討幕の志士でした。 1863年「生野の変」で挙兵しますが失敗、捕らえられ京都の六角獄に投獄され、翌1864年の「禁門の変」の混乱で斬首され37歳の一生を終えました。

「平野國臣先生誕生地」碑 中央区今川
この年より溯ること2年、1862年に平野國臣は「寺田屋事変」に関わり捕らえられ福岡で投獄されますが、そこでは筆を所望するも与えられなかったためコヨリで文字を作り紙に練った飯粒で貼り付け文章を書きます。 これが「平野國臣紙撚文書」といわれるもので、芸術性の高さはさるものながら牢の中で時間を持て余したとはいえ、これだけ根気の要る作業を行った國臣の意思の強さがひしひしと伝わる創作物になっています。 絵師・神坂雪佳作の平野國臣肖像画もこの「紙撚文書」を作成している様子をモチーフに描かれています。
「平野國臣紙撚文書」は京都大学電子図書館で閲覧することが可能ですので、興味のある方は一度ご覧ください。

京都大学電子図書館「平野國臣紙撚文書」
「神坂雪佳筆 平野國臣像」 のページへリンク

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【「漢委奴国王」印は本物?】
(1784年)
  -なぬ~金印には贋物説があった?-

金印イメージ図

江戸時代に志賀島から発見された「漢委奴国王」印には、意外にも当時より贋物説があったという事です。1700年を経て無傷で発見された奇跡に、疑問の声を上げる人々があっても仕方のない事なのかもしれません。

当時、福岡藩では「修猷(しゅうゆう)館」と「甘棠(かんとう)館」の二つの藩校を立ち上げる時期にあたり、金印を鑑定した亀井南冥が、館長を務める甘棠館の名声を少しでも高めるために「金印発見」を仕組んだのではないかといった疑問を持つ者が現れ、贋物説が真しやかに広まります。そして、この贋物説は最近まで討論され続けています。

贋物説を主張する側の一つの理由としては蛇鈕(じゃちゅう・蛇の形が刻まれた把手部)が中国で発見されている他の金印の中に見当たらないといった事がありましたが、1956年に中国雲南省の墳墓で蛇鈕・「滇王之印(てんおうのいん)」が発見され、この疑問に関しては一応の解決をみます。
また「漢委奴国王」印の印面の一辺が2.3㎝強でこれが後漢初期の一寸であることが指摘され、これも「漢委奴国王」印が本物である根拠とされています。
そして1981年には江蘇省より「廣陵王璽(こうりょうおうじ)」が発見されます。この印は西暦58年に光武帝の第九子・劉荊が廣陵王に封じられた際に受領した王印とされます。把手は蛇鈕ではなく亀鈕でしたが、「漢委奴国王」印と同一工房で作成されたのではないかとの説が出されるほど多くの類似点が指摘されています。
光武帝より奴国王に金印が送られたのが西暦57年の事ですので、「廣陵王璽」と「漢委奴国王」印が同じ技術で制作されたとなると、光武帝より送られた金印が「漢委奴国王」印である可能性が非常に高くなるのです。

これらの発見で、現在では「漢委奴国王」印は光武帝から送られた本物にまず間違いないのでは、という判断が主流となっています。しかし贋物説はいまだにくすぶり続けているのが現状の様です。
亀井南冥自身は贋物説に対して何も語らなかったようですが、作為的なものが無かったとした場合、南冥の憤慨はいかばかりだったかと同情せずにはいられません。

-参考 「『漢委奴国王』金印誕生時空論」(鈴木勉氏/雄山閣)-



福岡市博物館のページには鈕(ちゅう)ついて次のような説明がなされています。「漢帝国内の皇太子や高官などには亀の鈕の印が与えられますが、匈奴(きょうど)などの北方諸民族の王には駱駝や羊の鈕、蛇の鈕の印は南方の民族に与えられました。日本列島は南方の国と考えられていたようです。」(原文のまま)






【中山鹿之介の陣鐘?】
(明治時代)
  -国宝・西光寺の梵鐘-

国宝「西光寺梵鐘」

明治30年(1897年)頃の事、早良内野の西光寺の檀家衆はお伊勢参りに出かけます。その帰途、大阪に泊まった一行が街中を散策中、一人の檀家が古物商の軒先に雨ざらしになった梵鐘に目を止めます。汚れた上に乳部(上部にある複数の突起)が3つも外れている鐘。「松江の金物店から引き取ったんやけど、高値でなかなか売れませんのや。潰して金でもとろうか思って乳部を鑑定に出したんですけど含有量が少のうて・・・。由緒ある鐘やけど勉強しますに、どないですか?」店の主人の説明はこんな感じだったと想像するのですが・・・。 梵鐘に刻まれた銘文に詳しい人物がいたのか、一行はこの鐘を買い取ることに一決し、後日に三百六十五円を支払い梵鐘を地元の内野・西光寺に納めます。当時の物価は物によっても違うのでしょうが、150~200万円といったところでしょうか? のちに平安時代の893年に鋳造されたもので戦国時代の尼子氏やその家臣・中山鹿之介とも縁のある梵鐘であることが判明します。この事から「中山鹿之介の陣鐘」との逸話も生まれた様ですが、陣鐘にしてはちょっと大き過ぎる気がしないでもありません。

日本で鋳造年が判明しているものとしては5番目に古いこの梵鐘は1954年に国宝に指定されています。




中山鹿之介は毛利氏に滅ぼされた尼子氏の家臣で、尼子氏の再興に命を掛けますが支援する織田軍が兵を引いたため孤立し敗れ、毛利の軍に捕らえられ斬られます。鹿之介の残したといわれる「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」の言葉は余りにも有名です。 今現在、大きな壁に突き当たって抜け出せそうにない人も、この言葉を噛み締めれば多少なりとも勇気が湧いてくるのかもしれません。

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