【原八坊跡】(太宰府市連歌屋)
【原八坊跡】 |
【浦ノ城跡】(太宰府市連歌屋)
【浦ノ城跡】 |
足利尊氏が「九州落ち」で九州に上陸した直後、菊池武敏が少弐氏の「有智山城(うちやまじょう)」を攻め落します。 その数日後の「多々良浜の戦い」で足利尊氏、少弐頼尚の軍が菊池武敏軍を撃ち破り筑前より追うと、少弐頼尚は「浦ノ城」に隣接する原八坊の一坊に尊氏を迎えます。 この時点で尊氏を「浦ノ城」に迎えなかったのは、菊池軍の攻撃で「浦ノ城」も「有智山城」と共に焼失していたからだと思われます。
【岩屋城跡】(太宰府市観世音寺)
【岩屋城跡(本丸跡)】 |
この城を築城した大友家の有力武将、高橋鑑種(あきたね)は、1567年に主君大友宗麟に反旗を翻します。 その理由はよくわかってはいませんが、宗麟が鑑種の兄、一万田親実の夫人を奪うために親実を殺害したからではないかとの説があります。 大友宗麟にはこのような話が他にもあり、また配下の武将の反乱も1556年小原鑑元、1565年立花鑑載と起こっています。
結局、高橋鑑種の抵抗は失敗し追われますが、これら部下たちの反乱は「下剋上の世」だけでは済まされない事情がありそうです。 そんな中、この君主を最後まで支えた中心的家臣が立花道雪と高橋紹運でした。
【高橋紹運公並びに勇士の墓】 |