連歌屋方面



【原八坊跡】(太宰府市連歌屋)


原八坊跡

【原八坊跡】
原八坊は、正式には原山無量寺という寺で、平安時代に天台宗の智証大師円珍と8人の弟子たちが 開いたと伝えられる。
原八坊跡は、足利尊氏が九州に落ちて来た時に、この一坊に入ったと伝えられ、また時宗の一遍上人も 12年間、ここで修行するなど、かっては大きな寺だったことが想像される。戦国時代末に消亡した。

’93 太宰府市
「原八坊跡」の案内板より



関連記事:原八坊




【浦ノ城跡】(太宰府市連歌屋)


浦ノ城跡

【浦ノ城跡】
筑前国の守護、少弐氏の居城と伝えられる。城の構えの詳細はわからないが、昭和44年、 開発に伴う発掘調査で、御笠川と、コの字形の急峻な斜面をもつ丘陵とを巧みに利用して 造られていたことが判明した。
少弐氏の六代頼尚は足利尊氏を助けて、浦ノ城北側の原山の一坊に尊氏を迎えている。
              太宰府市          

「浦ノ城跡」の案内板より

現在「浦ノ城跡」は住宅地となっており、この案内板はその児童公園内に立っています。

足利尊氏が「九州落ち」で九州に上陸した直後、菊池武敏が少弐氏の「有智山城(うちやまじょう)」を攻め落します。 その数日後の「多々良浜の戦い」で足利尊氏、少弐頼尚の軍が菊池武敏軍を撃ち破り筑前より追うと、少弐頼尚は「浦ノ城」に隣接する原八坊の一坊に尊氏を迎えます。 この時点で尊氏を「浦ノ城」に迎えなかったのは、菊池軍の攻撃で「浦ノ城」も「有智山城」と共に焼失していたからだと思われます。



関連記事:浦ノ城




【岩屋城跡】(太宰府市観世音寺)


岩屋城跡

【岩屋城跡(本丸跡)】
岩屋城は永禄2年(1559)宝満城の支城として豊後大友氏の武将高橋鑑種によって築かれた 同12年彼は 主家大友宗麟に叛き城を追われ 代わって吉弘鎮理(後の名将高橋紹運)が城主となった 紹運は天正14年 (1586)九州制圧を目指す島津5万の大軍を迎え撃ち 激戦十余日 秀吉の援軍到着を待たず玉砕し落城した。

太宰府市

「浦ノ城跡(本丸跡)」の案内板より


この城を築城した大友家の有力武将、高橋鑑種(あきたね)は、1567年に主君大友宗麟に反旗を翻します。 その理由はよくわかってはいませんが、宗麟が鑑種の兄、一万田親実の夫人を奪うために親実を殺害したからではないかとの説があります。 大友宗麟にはこのような話が他にもあり、また配下の武将の反乱も1556年小原鑑元、1565年立花鑑載と起こっています。
結局、高橋鑑種の抵抗は失敗し追われますが、これら部下たちの反乱は「下剋上の世」だけでは済まされない事情がありそうです。 そんな中、この君主を最後まで支えた中心的家臣が立花道雪と高橋紹運でした。



高橋紹運墓入口の案内石

【高橋紹運公並びに勇士の墓】
戦国の武将高橋紹運は23歳で岩屋城主となり名将の誉れ高かった。天正14年(1586)北上した島津5万の軍と戦い  城兵763名と共に玉砕した 時に39歳であった 紹運以下勇士たちここ二の丸趾に眠る

  辞世歌 流れての末の世遠く埋もれぬ
         名をや岩屋の苔の下水
                         太宰府市
   

「高橋紹運公並びに勇士の墓」の案内板より

右上写真の入口案内石より、少し下ったところに、高橋紹運公と将兵たちの墓があります。


関連記事:岩屋城,高橋