訂正履歴

2017.9.2【芦屋から壇ノ浦へ】
福岡史伝「芦屋から壇ノ浦へ」で平家の人々が山鹿の次に逃れた地を「豊後・柳が浦」と記載していましたが、北九州市門司(和布刈)にある源平合戦絵巻の傍らにある案内板には、柳が浦は豊前の柳が浦(現在の門司区大里辺り)と記載されていたので訂正しました。
2017.5.6【福岡人物伝 早川養敬】
宗像市吉留にある銅像の碑文には早川勇という名になっているため、福岡人物伝の早川養敬を早川勇と変更しました。
2016.4.10【熊襲の抵抗】
古墳時代の「熊襲の抵抗」の記事に「しかし肥後に進むと熊襲が徹底的な抵抗を示します。」と記載していましたが、日本書紀では日向で熊襲と戦ったと記載されていたので「肥後」を「日向」と変更しました。
2016.2.23【新羅海賊の入寇】
警固所が設置された場所を現在の「警固公園付近」としていましたが、実際は現在の警固神社より西へ800mほど離れた福岡城の東側の警固の辺りにあったようですので、「現在の警固。福岡城の東側付近」と訂正しました。
2016.2.18【寛政異学の禁】
「貝原益軒に朱子学を学んだ竹田定良・・・」と記述していましたが、貝原益軒と竹田定良の生年には100年以上の差がありました。修猷館高等学校のページには貝原益軒に学んだのは定良の祖父・竹田定直という事が記載されていましたので、「貝原益軒系統の朱子学を学んだ・・・」と文章を訂正しました。
2015.6.27【月隈・金隈の戦い】
「月隈・金隈の戦い」について福岡史伝の「観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」では足利直冬と少弐氏が勝利し、 福岡人物伝「菊池武光」では菊池武光と一色範氏との連合軍が勝利した、と記述し矛盾がありましたので訂正しました。 「武藤少弐興亡史」(海鳥社、渡辺文吉氏)には「月隈・金隈の戦い」について少弐の軍が一色氏の月隈城を攻め、 城は落ちなかったものその後、少弐氏が戦いを有利に進めたとの戦況が説明されています。
2015.2.11【戒壇院建立】
聖武天皇の命で戒壇院が建立されたと記載していましたが、聖武天皇の崩御が756年で戒壇院の建立が761年で年代的に合わないため訂正しました。
2015.2.11【戒壇院】
聖武天皇の命で戒壇院が建立されたと記載していましたが、聖武天皇の崩御が756年で戒壇院の建立が761年で年代的に合わないため訂正しました。
2014.10.12【邪馬台国はどこ?】
「また南に向かって1000里程海を渡ると末盧国(松浦)に至る。」の末盧国を唐津としました。
2014.10.8【卑弥呼は誰?】
倭迹迹日百襲媛命が武埴安彦命と吾田姫の進攻ルートを予知したと記載していましたが、 「日本書紀」にはその様な事は記載されていなかっため訂正しました。
2014.10.5【三国志に奴国の戸数記載】
次の通り注釈を入れました。‥‥‥「ここでは末盧国を長崎県松浦市としましたが、松浦川や虹ノ松原が現存することや松浦佐用姫(まつらさよひめ)伝説が残ることから佐賀県唐津市の可能性が高いと思われます。」