福岡悲話



【「濡れ衣」の語源は博多にあり】
(奈良時代)
  -悲しい話です-

博多区千代・「濡衣塚」

「藤原広嗣の乱」の前後の事だと思われますが、都より佐野近世(さのちかよ)という人が奥方と娘を伴い筑前の守として赴任して来ます。それからしばらくして奥方は亡くなり近世は地元の女性と再婚します。ところがこの女性、先妻の娘との関係が上手くいかなかったのか、 娘を亡き者にしようと策を巡らします。
そしてある日のまだ星の輝く早朝に、一人の若い漁師が近世の邸を訪れ「佐野様のお嬢様が最近、夜な夜な私の所へいらっしゃって釣り衣(つりぎぬ)をお持ち帰りになります」と訴えます。驚いた近世が娘の部屋に行ってみると、なんと娘は濡れた釣り衣を背中に掛けて眠っていました。このかた後妻と娘の板挟みにあい悶々としていた近世はとうとう怒り心頭に発し、即座に娘を手打ちにします。実はこの若い漁師、金品を受け取り後妻から言われたとおりに一芝居打っていたのです。そして釣り衣の方は娘の部屋に忍び込んだ後妻が寝入った娘に掛けたものだったのです。このようにして事は後妻の思い通りに運んだのですが、翌年のある日 娘が近世の夢に現れ次のような内容の歌を詠みます。

「私が脱ごう脱ごうとしている濡れ衣は、実は私を長い間 苦しめる 身に覚えのない罪のことなのですよ」

「濡れ衣の袖から落ちる雫は、身に覚えのない罪を洗い流すための私の涙なのですよ」

近世は娘に罪のない事を悟ると後妻を里に返し、自らは出家し松浦山(唐津・鏡山)に移り住んだという事です。



以上は貝原益軒の「筑前国続風土記」に記載されている「濡衣」の内容です。 現在、国道3号線と昭和通りの交わる石堂大橋の近くに「濡れ衣塚」という史跡が残されています。
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【針目城落城の原因】
(1581年)
  -自らの行いで破滅した城番-

大友宗麟が「耳川の戦い」で島津軍に大敗すると筑前東南部では秋月種実が宗麟に対し叛旗を翻します。 種実は大友勢の抑止のため筑前と豊後との境界地帯の穂坂(原鶴温泉の東方)に針目城を築き、初山九兵衛という人物を城番とします。 ところがこの武将、女癖が悪かった様で、我が部下の高久保彦次郎という者の容姿端麗な妻に手を出してしまいます。 数ヵ月後、この事を聞き知った九兵衛の奥方は嫉妬心から怒りが収まらず、七夕の行事で部下の妻たちを集めると、ひとり一人に言葉を掛け定例の酌をします。しかし彦次郎の妻だけには言葉も掛けず酌もしませんでした。この仕打ちで彦次郎の妻は九兵衛との事が公になったことを知り、急ぎ自宅に帰ると、夫あての遺書を認(したた)めそのまま自害してしまいます。 この事件で面目を失った高久保彦次郎の憤慨は甚だしく、大友方に通じ城の守勢が手薄な時を見計らって、敵兵を城内に引き入れたため針目城は大混乱に陥り遂には落城します。 そしてこの機に乗じて彦次郎は初山九兵衛とその奥方を斬り捨てたと「筑前國続風土記」に記されています。




貝原益軒は「筑前國続風土記・針目古城」の項の最後で「この城番の姓名に関しては『九州軍記』に他説があるが、村の古老の伝える初山九兵衛が実説である。」と締め括っています。

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【おしどり伝説】
(戦国時代)
  -三原貞吉の話-

貝原益軒は「筑前國続風土記」に次のような話を載せています。

戦国の頃、筑後三原郡に三原貞吉(みはらさだよし)という武将がいました。大友氏の配下で、ある日に所用で主家の豊後へ出かけます。その途中、志波村(現在の原鶴温泉から北西の地帯)の香山淵を通りかかると、鴛鴦(おしどり)のつがいが仲良く泳いでいるのを見つけます。弓に自身のあった貞吉は腕試しに雄鳥を射殺してしまいます。そして、その雄鳥を拾い上げてみると、矢は首に当たったようで躯(むくろ)となり果てていました。
その後、豊後に行きしばらく逗留した貞吉は、その帰路に再び香山淵を通りかかると、先日の雌鳥の鴛鴦が一羽でいるのを見つけます。「これは得たり」とこの雌の鴛鴦も弓で射抜いてしまいます。そして、その鴛鴦を拾い上げてみると、なんと羽の内には先日射殺した雄鳥の首が擁かれていたのです。
この首を目にした貞吉は自分の行為の罪深さを知り、時を置かずに出家の道を選んだという事です。


最後に益軒は「沙石集第八巻」や「近比丸鑑」という書物に同じような話が記載されていることを指摘しています。
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【お綱門の事】
(江戸時代)
  -福岡城内での悲劇-

福岡城には戦前まで「お綱門」という門が残っていたそうです。第二代藩主・忠之の頃、城に乱入しようとした女人が門番に斬られ、この門まで辿りつき絶命したといわれるいわく付きの門になります。その女人の名が「お綱」でこの事件の頃からこの門は「お綱門」と呼ばれるようになりました。そして巷では「お綱門に触ると高熱が出て死んでしまう」などといった噂が広がり、夜警の兵卒もお綱門方面の巡回を非常に怖れたと言います。

この事件の発端は藩主・忠之が参勤交代の帰りに大阪の芸妓を連れ帰り城内に住まわせたことから始まります。この事に気分を害した忠之の奥方からの依頼で重臣たちは「ほどほどに・・・」と幾度も忠之を諌めます。忠之は仕方なく近臣の浅野四郎左衛門へこの芸妓を譲り渡しますが、四郎左衛門はこの芸妓を城内の邸宅に住まわせ、正妻のお綱と幼い二人の子供を馬出(まいだし・福岡城より北東4㎞)の別宅に移します。面目を失くしたお綱はひたすら耐え忍ぶ日々を過ごすのですが、四郎左衛門は賄いを入れなくなるどころか別宅に顔をも出さなくなります。この仕打ちに遂に耐え切れなくなったお綱は二人の子供を刺し殺し、長刀を持ち出し夫のいる福岡城へ乱入することになるのです。

事情が事情なので事件に関わった人々は多くを語らず真実のところは伝わっていない様で、そのためか、この話には多くの脚色がなされ怪談話として物語風に伝わっているのかもしれません。
ただ夫から遠ざけられた女性が二人の幼い我が子を手に掛け、長刀を持って乗り込んだ福岡城で斬られたのは事実の様です。馬出には母子三人の墓石が今も残っているという事です。

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【飴買い幽霊の話】
(1679年)
  -安国寺に伝わる伝説-

福岡の歓楽街・親富考通り(以前は親不孝通り)の真ん中辺りを博多湾に向かって右手に入ると、安国寺というお寺があります。このお寺には「飴買い幽霊」の伝説が残り、その墓も置かれています。伝説の内容は次の通りです。

深夜、飴屋に若い女性が店の戸を叩き、飴を買いに現れます。この様なことが数日続いたため不審に思った飴屋は、この若い女性の後をつけてみることにします。女性は安国寺に入り墓場の方へ消えてしまいます。そしてそこからは赤ん坊の泣き声が聞こえてきました。
翌日、飴屋は和尚さんに事情を話し、赤ん坊の泣き声がしたあたりを掘り起こすと毎夜、飴を買いに来ていた女性の遺骸と埋葬後に生まれた赤ん坊が見つかります。
女性は墓の中で生まれた我が子に、乳の代わりに飴を与えていたのだろうと、皆は不憫がります。そして飴をなめていた赤ん坊も数日後亡くなったため、改めて墓を建て弔ったということです。


この飴買い幽霊の話は金沢、福島、京都、今治など日本各地にあり、落語噺にもなり、小泉八雲も小説の題材に取り上げているようです。しかし、ただ一つ、福岡の伝説が他県の伝説と異なっているのは赤ん坊が亡くなってしまう事です。この結末はおそらく安国寺にある墓石の形に起因しているのかもしれません。
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