余談

ふと思った事を書いてみました。ひとり言的な話です。


【マルちゃん訪問】
(2018年10月9日)

先日、テレビで有名になった嘉麻市・前田酒店の店番犬・マルちゃんに会いに行ってきました。
中に入ると、マルちゃんは店内の片隅でお昼寝中。
見知らぬ来客に気がついたマルちゃん、戸惑い気味でおかあさんの顔をチラチラ確認、危ない客でないことが解ると立ち上がり近づいて来てくれました。
前田酒店のおかあさんは気さくな方で、お酒を購入する様子もない客にいろいろとマルちゃんの事を教えてくれました。しばらくマルちゃんと触れ合っていましたが、飽きたのかマルちゃんは店の奥に入って行きました。長くなって申し訳ないのでこちらも帰ろうするとカウンターの向こう側にマルちゃんが突然出現、奥に戻ったのはカウンターに前足を載せる接客ポーズを披露するためだったようです。この気配りに「むむ!この柴犬なにかスター性をもっている」と感ぜざるを得ませんでした。
最後に、嘉麻市の辛口純米酒「寒北斗」を購入させていただき、おかあさんにお礼をお伝えしてお店を後にしました。

前田酒店のある嘉麻市大隈町という地は、豊臣秀吉の一夜城で有名となった益富城の城下町にあたります。黒田氏筑前入国後は家臣で後に大阪の陣で名を馳せた後藤又兵衛や黒田節で有名な母里多兵衛が城主となっています。そして現在では10月から11月に掛けて一夜城を建てライトアップする「一夜城まつり」が執り行われています。






【筑紫とは?】
(2018年9月24日)

益軒は筑前国続風土記の冒頭で、筑紫について言及しています。 「此國を筑紫と名付し事、古は筑前筑後一国にして、是を筑紫といへり。故に日本紀等の古書に、筑紫といへるは、多くは筑前筑後をさせり。又九國をすべて筑紫と称し、或九州の内筑前筑後の外をも、筑紫といひし事も間これあり。筑前はいにしへ官府のありし國にて、九州二島をすべてまつりごちし所なれば、其國の名をとりて、九國をもすべて筑紫といへり。たとへば大和に帝都ありし故、日本をすべてやまとと称せしが如し。」

筑前国続風土記の記述どおり、日本書紀では「筑紫」の定義が結構曖昧のようです。
大宰府周辺のことであったり、九州北部であったり、九州全体であったりと・・・ 大まか筑前は筑紫に間違いないと思われますが、これに豊前、豊後、肥前、筑後が含まれたりします。
また九州全体を筑紫とする記述も確かにあるようです。

「筑紫」とは何ぞやとの回答は「定義できないもの」なのかもしれません。この言葉を使っていた人々が正確な「筑紫」を理解していなかったのですから・・・
地理に詳しい地元の人に「筑紫とは?」と質問しても、帰ってくるのは回答は「筑紫?そりゃ西鉄電車に筑紫駅があろうが、あの辺りたい」といったものに違いありません。

関連記事:筑紫,益軒






【大宰府史跡 ロゴマーク募集 情報】
(2018年8月12日)

九州歴史資料館のページにロゴマークの募集が掲載されていましたのでリンクを貼りました。


大宰府史跡指定100年事業 ロゴマーク大募集
「平成32年度は、福岡県を代表する特別史跡大宰府跡と特別史跡水城跡が、わが国最初の史跡になって100周年に当たります。福岡県教育委員会ではこれを記念して、「大宰府史跡指定100年事業」で使用するロゴマークを公募します。最優秀賞に選ばれた作品は、本事業のポスターやチラシに使用されます。」

-福岡県教育委員会のロゴマーク募集のチラシより-

対象は大宰府史跡に関連する市町の学校に在籍するか、またはその地域に居住する小学5年生~高校生のようです。詳しくはこちらの pdf をご参照ください。






【PCページをリニューアル】
(2018年7月22日)

PCページをリニューアルしました。これに伴い、web.fukuokashiden.netは重複管理となるため廃止しいたしました。スマホのページは現状どおりとなっています。 今後はwww.fukuokashiden.netのページをご覧いただきますようお願い申し上げます。

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【親不孝通りの史跡】
(2018年4月7日)

先日久振りに所用で天神に出たので、ついでに親不孝通りに足を伸ばしました。 「親不孝通り」は随分以前に「親富考通り」に名称変更されたのですが、噂どおり「親不孝通り」の呼称に戻された様です。 ところでこの親不孝通りは中洲に匹敵する福岡市を代表する繁華街として有名なのですが、その近隣では隠れた史跡を散策することができます。

左の写真は、南側から通りに入り一番最初の角を左には入ったところにある石碑です。西郷隆盛が筑前を訪れた際に宿泊した家屋があった場所らしく碑には「西郷南州翁隠家乃碑」と刻まれています。 西郷隆盛は筑前にも数度訪れているようなのですがその足取りが詳しくわかっておらず、この碑も「隠家」となっており、西郷は筑前では極秘裏の動きをしていたのでは・・・そんな疑問が湧いてきます。

下段右写真は少林寺の門前で、通りの東手にあります。1604年黒田長政により建立され、黒田家ゆかりの人々の墓が置かれています。幕末の筑前勤皇党の弾圧事件「乙丑の獄」に斃れた月形洗蔵もこの寺に眠っています。 月形洗蔵は参勤交代の不要を説いたため、藩主・黒田長溥の怒りを買い4年間の蟄居生活を送りますが、五卿の筑前遷座の際に許され五卿を太宰府に迎えます。その後、薩長の有力者と面談し薩長同盟の締結に奔走します。 一般的には薩長同盟は土佐の志士によって実現したイメージが強いのですが、この少林寺を訪れた際には筑前勤皇党の地道な努力があったことも記憶に留めていただければ幸いです。

また、この他に少林寺から東に入ったところには「飴買い幽霊」の伝説で有名な安国寺があります。 観光で親不孝通りを訪れた方は、食事をされる前にこの辺りを散策されてみてはいかがでしょうか・・・






【五郎山と天山と宝満山】
(2018年3月5日)

五郎山と天山と宝満山

福岡県筑紫野市にある歴史にまつわる三つ山を撮影しました。(北に向かって撮影しています)
 手前が五郎山古墳がある原田・五郎山。五郎山古墳は終戦から2年後に発見された6世紀後半の古墳とされ内部では壁画が発見されています。現在は国指定の古墳となり、山は公園として整備されています。
 手前から2番目のやや右手の山が昔は天山(あまやま)と呼ばれた宮地岳になります。徐福伝説に因む「童男丱女岩」と呼ばれる岩石群が見られ、戦国時代にはこの山の麓に筑紫広門配下の柴田城がありました。広門と同盟関係にある秋月種実はこの城を足掛かりに、高橋紹運の岩屋城城下に攻撃を仕掛けています。
 そして一番奥の左手の山が宝満山で、高橋紹運配下の難攻不落の宝満城があった山になります。島津氏の筑前攻略の際には紹運と手を結んだ筑紫広門配下の兵と紹運の次男・高橋統増が守りますが、広門が島津勢に降伏し、紹運は岩屋城(太宰府市・大野山にあった城)で壮絶な戦いの末に自刃したため、筑紫の兵の勧めで開城降伏しています。






【SSL対応で不具合発生!】
(2018年1月13日)

通販サイト以外でもSSL対応は当たり前になってきているようで、検索サイトでも表示順に優劣がつく様です。 そこでMYページをSSLに対応させてみたのですが、手打ちで作成したページのスクリプトが動かなくなってしまいました。WordPressで作成したページは難なく対応できたのですが、手打ページはごちゃごちゃした機能を付加し過ぎて何処が影響しているのか判明せず簡単には解決に至りません。frameが影響してるのかと考えましたがそうでもなさそうです。らちが明かないのでとりあえずSSLを外すものの、今度はサーチエンジンより外されてしまう(SSL対応を外すと信用度が落ちるのか?)悲しい状況に陥り、目的と逆の方向へと進んでしまいました。 時間がかかりそうですが、解決次第また結果を掲載する予定です。






【人参が嫌いな子は読むべからず】
(2017年11月18日)

益軒は養生訓・巻第三の末にこう書いています。

「心口にかなわざる物、食うべからず」

講談社学術文庫「養生訓」の訳者・伊藤友信氏は「心口にかなわざる物」を「口に合わず気に入らないもの」と訳しています。早く言えば益軒は「嫌いなものは食べてはいけない」と言っている訳です。これはおそらく蕎麦や小麦・卵などのアレルギーに関連する事か、もしくは気が塞がる行為の不実行の勧めだと思われるのですが、お父さんお母さんから「人参、残さないでちゃんと食べなさい!」と小言を言われている子ども達には耳寄りな情報かもしれません。

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【宝石で雀を撃つが如し】
(2017年8月17日)

益軒は「養生訓」で次の通り語っています。
「宝石を礫(つぶて・石ころ)として雀を撃たば、愚なりとて、人必ず笑はん。・・・中略・・・かろき小なる欲を貪りて身を損なうは、軽重を知らずというべし。」
これは欲に任せて酒色を貪る行為は体に良くない事を指摘しているのですが、これは物欲にも言える事かもしれません。

落語で近くの鰻屋の蒲焼を焼く煙をオカズに飯を喰う男の噺がありますが、これは吝嗇の中でも可愛げがある方です。
「定吉、隣からカナ槌を借りてきておくれ」
「へい!行って参ります。」
定吉は隣に行き、しばらくして戻って参ります。
「カナ槌はどうした?」
「いえ、隣の旦那は『打つのは木か鉄か?』と聞かれます。」
「それで・・・」
「『鉄を打つのなら磨り減るから貸せねえ!』と・・・」
「なんだ、隣の親父はケチな野郎だ!しょうがねえ、家(うち)のを出して来い!」

人に迷惑を掛ける吝嗇というのはどうも頂けません。この噺が笑えるのは定吉の主人自身が自分のそれに気付いていないところかもしれません。私自身も気風のよい方ではないので、よくよく気を付けなければ・・・。僅かばかりの金銭や体面のために自身の人間性を磨り減らす行為も「軽重を知らず」と言ったところなのかもしれません。

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【貝原益軒記想録をリリースしました。】
(2017年6月30日)

「益軒先生伝」を分離し新たに「貝原益軒記想録」としリリースしました。(分離と言ってもサブドメですが・・・)






【福岡史伝WordPress版を公開しました】
(2017年5月28日)

福岡史伝のWordPress版を公開しました。内容は「福岡史伝と名所旧跡」とほぼ同じです。WordPressに興味をお持ちの方は一度ご参照ください。ページアドレスはwwwをwebに変更したものになります。






【引越しに伴う停止のお知らせ】
(2017年4月19日)

サーバーの引越しに伴い約24時間ほどページの公開を停止します。期日は4月23日(日)22:00~を予定しております。






【plalaのページを閉鎖しました。】
(2017年3月7日)

plalaの個人ページにて公開しておりました「福岡史伝と名所旧跡」も5年を超え、更新も現行のサイトのみとなっておりました。この流れよりplalaのページは役目と終えたと判断し、2017年3月3日を持ちまして閉鎖させていただきました。plalaのページをご参照いただいた方々には深くお礼を申し上げます。






【咎むべからず。憂うべからず。】
(2017年1月26日)

貝原益軒は著書「養生訓」に次のような事を記述しています。

「世の中の人の行動が、自分の意にそわなくても、『人とはそんなものだ』と考えて、人の悪いところは、なだめ、許して、咎めてはいけない。そして怒ったり、恨んでもいけない。又、わが身が不幸にして福うすく、人が自分に対して横暴な場合も、『世の中はこんなものだ』と思い、天命に満足し、憂えてはいけない。つねに楽しみて日を送るべきである。」

また「過ぎ去たる人の過ちを、咎むべからず。我が過ちを、しきりに悔ゆべからず。」とも書いています。

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【現在スマホ対応中です。】
(2017年1月8日)

最近スマホによるアクセスがPCからのアクセスを大きく上回っているのが現状の様です。 当ページは、トップページのみのスマホ対応となっていたため、現在、早急なスマホ対応を進めています。スマホで検索さてれている方にも見安いページを提供して参りますので今後とも「福岡史伝と名所旧跡」をよろしくお願いいたします。

2017年正月

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【酒食を過すは腹中を戦場となすが如し】
(2016年12月31日)

胃腸を酷使する時期も山場を迎え、正月明けには胃腸薬のお世話になる人も多いのかもしれません。

ところで、貝原益軒の「養生訓」には過酒食について次の通り書かれています。
「酒食を過ぎると、強い薬を用いなければ消化できない。これは敵が領内に乱入して城郭を攻め破らんとするのと同じである。こちらからも強兵を出して防戦し、我が士卒の多くが討ち死にしなければ敵に勝つ事はできない。この様に薬を用いて食を消化するのは、自分の腹中を戦場とすることになる。過酒食は敵となり我が腹中を攻め破るのみならず、用いた強い薬も敵兵と入り乱れて戦い健康を仕損じること甚だしい。だからこそ敵を我が領内に引き入れて戦うよりは、外に防ぎ内に入れなことに越したことはないのである。」
この様に益軒は過酒食を戒めているのですが、この記事は過酒食だけではなく病気全般の予防の勧めとも言えるのかもしれません。病気になって副作用のある強い薬を用いるのは最終的手段で、予防が如何に重要なのかを説く記事と受け止めてよいのではないでしょうか。

もうじき受験を迎える中高生の皆さんも受験直前に強い薬のお世話になる事のないよう、予防に努めてラストスパートをかけていただければと思います。
ガンバレ!! 受験生。






【養生訓 「怒」と「欲」について】
(2016年12月25日)

貝原益軒は著書「養生訓」で怒りと欲について次のような事を語っています。

「怒と欲との二つ、最も徳を破り生を失う。怒りを懲らし、欲を塞ぐは易の戒めなり。怒りは火が燃ゆるが如し。人の心を乱し、元気を損なうは怒りなり。抑えて忍ぶべし。欲は水の深きが如し。人の心を溺らし、元気を減らすは欲なり。思いて塞ぐべし。」

「養生訓」という題名からも判るようにこの本は、年配者向けに書かれた本なのですが、記事によっては年齢に関わらず役に立つことが多く書かれています。 この記事もその部類だと思うのですが、ただ若い人に「欲」を抑えなさいというのはちょっと違うのかもしれません。欲の質を大事にすべきと言うことを前提に解釈すべきなのでしょうか・・・。
「怒」に関しては言うに及ばずといったところでしょう。徳川家康も「怒は敵と思え」という言葉を残しています。






【日本人は勝負事が好き?】
(2016年12月14日)

このところIR(Integrated Resort、統合型リゾート)法案で国会が騒がしくなっているようですが、観光客が増え、雇用が増え、税収が増えるのであれば悪くはないのではと、安易ではありますがそう思ってしまいます。外国人観光客も日本の「わび・さび」一辺倒ではどうなのでしょうか、滞在中の一日ぐらいは遊び心があってもよいのではと感じるのですが・・・。


ところで中国・唐の時代に書かれた史書・隋書倭国伝には倭人の事が次の通り書かれています。
「性質は直(素朴・真面目)にして、雅やかな風がある。」
この反面、次の様な事も書かれています。
「囲碁、双六、サイコロ博打などの勝負事を好む」

また南北朝時代の九州の覇者・懐良親王は、倭寇の取り締まりを実施しなければ軍を派遣すると脅しをかける明の洪武帝に
「賀蘭山(がらんさん・中国北部の壁画遺跡のある山)に相会して博打でも楽しもうではありませんか・・・・・。 古くから『和を講じる事を上策となす』と言います・・・・・。」 と返書を送った事が明史・日本伝に記述されています。
懐良親王が勝負事を好んだのかは不明ですが、少なくとも博打がどんなものか理解していたのは確かだと思われます。


日本人が皆、勝負好きな訳ではないのでしょうが、私自身は博打好きで、友人も博打好きで、過ぎ去って行った心の通じた友人たちも皆、酒か博打が好きだったのが思い出されます。

もうすぐクリスマス。ジングルベルの鈴の音と共に恒例の「有馬記念」の時期がそこまでやって来たようです。






【酔っぱらいは芸術家?】
(2016年11月30日)

またまた飲酒の話になりますが、貝原益軒は「養生訓」に多飲の戒めとして次の通り記しています。

「生来謹厳な人も多く飲めば、欲深くなってみぐるしく、平常心を失い乱れてしまう。言行ともども狂ったようで、日頃とは似ても似つかぬものとなる。身をかえりみ反省して慎まなければならない。」

先生が記述する通りであるのは間違いないのですが、多飲の者としては「日頃とは似ても似つかぬものとなる」事が相手にも自分自身にも日頃の緊張感を解きほぐすことにつながるのではとの思いは隠せません・・・。(場合によっては緊張を高める可能性もはらんでいるのですが・・・)
しかし、小心な多飲の者としては「あの発言は問題なかったのだろうか?」と飲み会の翌日にすごく後悔することは度々あることで、「身をかえりみ反省して慎まなければならない。」という言葉は身に浸みる思いでもあります。

余談になりますが、英語で酔っぱらいの事を ’booze artist’(飲酒の芸術家)と表現するそうです。私はまだまだくどいだけの癖の悪い未熟者ですが、いつの日かアーチストと呼ばれるために、週2の飲酒で切磋琢磨する酔っぱらいでもあります。

ADD (2016.8.2)
UPD (2016.12.1)






【歴史語呂合わせ】
(2016年11月25日)

中学時代、秀才と言われる学友は受験前になるとこの歴史語呂合わせを日常会話の中で披露して人を笑わせていましたが、勉強嫌いな私はほとんど興味をそそられる事はありませんでした。
高校受験には間に合いませんでしたが、最近、多少興味を持ったのでここに残そうと思います。

漢倭奴国王印(57年)金印GO奴国(ゴーナこく)へと
親魏倭王印(239年)卑弥呼にサンキュー(ニサンキュー)
小野妹子の遣隋使(607年)旅で穴あき蒸れない(ムレナい)靴
乙巳の変(645年)虫殺し(ムシゴろし)の乙巳の変
白村江の戦い(663年)ムッ無残(ムッムザン)な戦い、白村江
大宝律令(701年)直いー(ナオイー)法律、大宝律令
平城京遷都(710年)南都(ナント)・奈良の平城京
三世一身の法(723年)何さ(ナニサ)、三世一身の法って?
平安京遷都(794年)鳴くよ(ナクヨ)ウグイス平安京
藤原純友の乱(939年)臭く(クサク)ないのか?純友反乱
平家滅亡(1185年)いい屋号(イイヤゴウ)の平家も滅亡す
鎌倉幕府成立(1192年)いい国(イイクニ)造ろう鎌倉幕府
新説・鎌倉幕府成立(1185年)いい国(イイクニ)造ろう7年前
建武の新政(1334年)いざ見よ(イザミヨ)建武の新政
応仁の乱(1467年)人世虚(ヒトヨムナ)しき応仁の乱
本能寺の変(1582年)一期は二度(イチゴハニど)なし、信長死す
関ヶ原の戦い(1600年)ヒーロー達の関ヶ原
徳川幕府成立(1603年)ヒーローさん(ヒーローサン)徳川家康大将軍
享保の改革(1716年)粋なヒーロー(イキナヒーロー)徳川吉宗
寛政の改革(1787年)定信の「質素倹約」、喜ぶ金持ちいないわな(イナいワナ)
天保の改革(1841年)人はよい(ヒトハヨイ)水野忠邦
ペリー来航(1853年)人はいつた見(ヒトハイツミ)た黒舟来航
池田事変(1864年)池田屋向かう新選組(イけだヤムかうシんせんぐみ)
禁門の変(1864年)一か八、無視(イチかバチ、ムシ)する門で戦いに
大政奉還(1867年)人は空(ヒトハムナ)しき大政奉還

受け売りですが、受験生の役に立てたら幸いです。
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【福岡市博物館「滇王之印」複製品】
(2016年11月13日)

福岡市博物館には、「漢委奴国王」印と同じ蛇鈕(蛇を象った取っ手)を持つ金印「滇王之印(てんおうのいん)」の複製が展示されています。 この金印は1957年に中国雲南省石塞山第6号墓で発見された金印で、次のような説明がされています。

[福岡市博物館の説明文]


1957年に中国雲南省石塞山で発見された蛇鈕の金印。前漢の「史記」西南夷列伝に「元封2(B.C.109)年、武帝は滇族の王“離難”を攻め、降伏した離難に王印を与えた」とある。つまみに蛇をかたどった金印は「漢委奴国王」と「滇王之印」の2点しか無く、史実を証明する貴重な考古学資料である。

「滇王之印(てんおうのいん)」が発見される以前の金印偽物説では「鈕(ちゅう・把手部)が蛇の金印は中国で発見されておらず、『漢委奴国王』印の鈕が蛇なのはおかしい」といった事に言及していましたが、この発見でその贋作説の疑問は解消される事となりました。

(2016.8.13)






【酒は天の美禄なり】
(2016年8月5日)

貝原益軒は養生訓で「飲酒」について次のように語っています。

「酒は天の美禄である。少量の飲酒であれば陽気になり血行も良くなり、食欲も出て、愁いを忘れ、やる気が起こり、たいへん利益がある。ただし多量に飲むと人を害する事、酒に過ぎる物はない。水や火が人の役に立つ反面、人に多くの災いをもたらすのと同じようなものだ。」

そして益軒は唐の詩人・白楽天の詩を引用しています。
「一飲一石なる者は、いたずらに多きを以って貴しと為す。其の酩酊の時に及んで、我とまた異なることなし。笑って謝す多飲の者。酒銭いたずらにみずから費やす」
-大酒家は酒量の多いことを貴ぶが、酔っぱらってしまえば酒量によってそれほど変わることはない。 多飲の盃は笑ってご辞退しよう。高い酒代をやたらと費やすだけなのだから-

自らも若い頃より「徒(いたず)らに多きを以って貴(とうと)しと為す」多飲の者として反省しきりです。

(2016.7.2)






【ただいま禁煙中・・・】
(2016年6月19日)

禁煙するのは簡単ですが、タバコを止めるのは難しい・・・。
禁煙すること数十回、最高2年間やめましたが、ストレスでここ1年間喫煙中でした。
ところで江戸時代の儒学者・貝原益軒はタバコについて名著・養生訓で次の通り触れています。

「・・・習慣になると癖づき、むさぼって、ついにやめられなくなる。・・・貧しい者はそのために出費が多くなるので、いっそう貧しくなる。」






【なぬ~大宰府政庁跡でももクロがLIVE!?】
(2015年10月14日)

大宰府政庁跡

2015年10月31日(土)、ももいろクローバーZが大宰府政庁跡でLIVE!?。なんと素晴しいアンマッチ。後片付けさえ問題なければ、斬新な企画。発案者は現代の平賀源内に違いない。ももクロファンにも福岡の歴史に興味をもっていただけたら嬉しいです。そして来年は「ももクロ女祭り2016 in 太宰府」を期待します。


「水城・大野城築造 竈門神社創建1350年 九州国立博物館 開館10周年 日本遺産認定記念 ももクロ男祭り2015 in 太宰府」  2015年10月31日(土) OPEN14:30 16:00~19:00






【奈良時代の筑後・肥後の農民たちの事】
(2015年9月6日)

夜明神社の首人塚

奈良時代に筑後・肥後で農政改革を行った道君首名(みちのきみおびとな)の功績は間違いなく褒め称えられるべきものなのでしょうが、その功績は農民たちの協力なくしてはなし得なかったのかもしれません。 どんな経緯があろうとも認めるべきものは認め受け入れる。そんな筑後や肥後の農民達の簡潔で柔軟な対応には、 なかなか物事が決まらない現代日本に生きる一人間として学ぶべき処があるのかもしれません。 めっきり、褒められる事が少なくなった政治家という職業ですが、もしかしたら首名の様に揺るぎのない「思い」と 揺るぎのない「政策」を持つ立派な政治家は少なくないのかもしれません。

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【有馬記念の由来】
(2015年9月6日)

東側城壁

余談ですが、競馬のオールスター戦で、かつ一年を締め括るGⅠ(グレード1)レースの「有馬記念」は中央競馬会理事長だった有馬家15代頭主、有馬頼寧(よりやす)氏により提唱開設されたレースです。競馬に興味のない方のために説明するならば、若馬のレース「日本ダービー」は文学界の「芥川賞」に当たり、「有馬記念」は「直木賞」といった位置づけになります。
このレースは当初「中山グランプリ」という名称でしたが、日本競馬の発展に大きく貢献した有馬氏の死去に伴い「有馬記念」と名称変更され、以後、最も注目されるレースのひとつとして競馬ファンから親しまれています。 この有馬頼寧氏の祖父が久留米藩最後の藩主となった有馬慶頼(よしより)になります。

関連記事:有馬,久留米藩






【「黒田節」像の余談】
(2015年9月6日)

博多駅の「黒田節」像

余談になりますが、以前、酒の席で「九州の男はよく酒を飲むなあ」と東京や大阪の先輩方から度々お褒めいただいた事がありますが、どうもこのイメージを植えつけた一因が「黒田節」のようで、「福岡は黒田節だもんな~、よく呑むはずだよな~」てなことになっているようで・・・。
しかし、母里太兵衛は兵庫辺りの出身で九州人ではありません。要は「九州の男」ではなく「日本の男はよく酒を飲むよな~」といったところでしょうか・・・。そういえば東京や大阪の先輩方も結構いける口だったのが思い出されます。






【戒壇石の事】
(2015年9月6日)

戒壇院の戒壇石

戒壇院の門の傍らにある石柱には、「不許葷酒肉入境内」と彫ってあります。 おそらく「境内に葷、酒、肉を入るを許さず」といった内容で当時の戒律の厳しさが偲ばれます。
「葷酒肉」の「葷」は最初「軍」の事かと勘違いして恥ずかしい思いをしたことがあります。 後にネットで検索してみると「葷」は「クン」と読み、ニンニク、ニラ等のにおいの強い野菜のことと判明しました。 ニンニク、ニラにネギ、ラッキョウ、アサツキ(ショウガ、タデ)を加えて「五葷(ゴクン)」と呼び、仏教界ではごく普通の言葉らしいです。また「葷酒」は「クンシュ」と読み1つの単語になっているようで、こちらも仏教界ではごくあたりまえの言葉だそうです。
またこの石柱は「戒壇石」といわれるもので、一般的には「不許葷酒入山門」と刻まれているとのことです。

関連記事:戒壇石






【浅野四郎左衛門の事】
(2015年8月1日)

先日、「お綱門の事」の記事を書いていて思った事です。
事件後にお綱の夫・浅野四郎左衛門には陰に陽に批判が殺到し著しく藩内での立場を悪くしたのではないかと想像され、名前も知らぬ様な他の藩士から冷たい視線で睨まれたり、身に覚えのない噂を流されたりと、藩主から気に入られた若手藩士だっただけに逆に、風当たりが強くなったのではないでしょうか、この事件からしばらくして四郎左衛門自身も熱病で他界したと伝わっています。
なぜ四郎左衛門は藩主の奥方から疎まれた芸妓を城内の邸宅に住まわせてしまったのか・・・、本気で芸妓へ入れ込んでしまったのか・・・、それとも主君へ対する気配りだったのか・・・、はかない疑問が残ります。お綱のやるせない心情は計り知れないもので、子供達の事を思うと四郎左衛門の罪は洗い流せるものではないのでしょうが、主君へ対する四郎左衛門の気遣いを想像すると、この人にも同情の余地が残る様な気がしてなりません・・・。






【レンタルサーバに引越し】
(2015年5月26日)

最近ちょっと時間ができたので、固定IPを取得しLinuxサーバを立ち上げてみる事に・・・。 しかしWeb公開の段階で壁に突き当ってしまい「自宅サーバの電気代はどの位になるのかな?」、「不在時にPCより出火の可能性は?」、「MYサーバが世間様にウイルスをばら撒いたりしたらどうしよう?」、「この歳で企業のLinuxマシン立上げの仕事は回って来ないよなあ」、「自宅サーバは本当に必要なのか?」、「やっぱりサーバはレンタルが一番だよな!」と LinuxでのWeb公開作業からトンズラする理由を探す破目になってしまいました。 せっかく固定IPを取ったので、取りあえずWindowsのフリーサーバソフトを使ってWeb公開が可能な事を試した後、早速レンタルサーバに方針転換・・・。そして本日やっと引越を完了することができました。アドレスは「www10.plala.or.jp/dazaifu/」から「www.fukuokashiden.net」に変更、plalaは安価で接続の件もあるので、Webの窓口として残しておこうと思います。 この作業のついでに簡単なスマホ対応もしてみました。
当初の目的は達成できませんでしたが多少は勉強になったと自己納得。あと悔しいのでCentOSの環境は残しておいて、一段落してもう一度挑戦したいと思います。






【都井岬の馬】
(2014年8月28日)

天然記念物「御崎馬」(串間市都井岬)

宮崎の観光名所のひとつ「都井岬」にはの野生馬が生息していることで有名ですが、これは秋月藩が軍馬育成のために放牧したものが野生化したものといわれています。
秋月氏は「藤原純友の乱」を平定した大蔵春実の血を引く家柄で、九州では武家御三家といわれた少弐・大友・島津氏よりも古い血筋になります。 戦国時代、秀吉の九州征伐の際には九州の雄・島津氏に属して抵抗したため、島津氏の降伏後に筑前・秋月より日向に転封されたのですが、 私はこの転封先を最近まで「日向・高鍋」とばかり思っていました。 しかし「都井岬の馬」のことを調べているうちに転封先は「日向・串間」であり「関ヶ原の戦い」以後に高鍋に移り高鍋秋月藩が成立した事を知り、慌てて秋月氏に関する記事を訂正することとなりました。
ところで都井岬の野生馬は現在の競走馬に比べると、一回り小さい体躯を持つようです。実際のところ戦国時代の武将達は歴史ドラマで見る様な背の高い馬ではなく、この様なひと回り小柄な馬に跨り、戦場を駆け巡ったのかもしれません。






【「新選組始末記」について】
(2014年8月27日)

このサイトでも真木和泉、平野國臣、篠原泰之進の項で参照している「新選組始末記」ですが、 残念ながらこの書は史家や歴史作家より創作の部分が余りにも多過ぎるとの指摘があります。 著者の子母沢寛氏自身もその「あとがき」で次のようなことを書いています。

「幕末史の権威、尾佐竹猛、井野辺茂男、藤井甚太郎の諸先生を訪れて、新選組の事を根ほり葉ほり聞いたが、 藤井先生は『史料は糞でも味噌でも手の届く限り漁れ。品別(しなわけ)はやっているうちに自然にわかってくる』と教えて下さった。 生き残りの老人たちのはなしは、疑わしいものもあったが、 私は『歴史』というのではなく現実的な話そのものの面白さをなるべく聞きもらすまいと心がけた。」

個人的には若い頃に愛読した「新選組始末記」の記事ができるだけ真実、いや現実であって欲しいという願望が強いのですが、 この書の解説を担当した小松伸六氏も子母沢氏の功績を讃えつつも 「『新選組始末記』は随筆とも小説とも記録とも史談ともつかぬもの・・・」 と表現しています。ただ子母沢氏が古老たちの話を聞き集めたのが大正末から昭和の初期で明治維新より約60年後の事、 現在でも70年前の太平洋戦争の語り部がいらっしゃる事を思うと、 子母沢氏の記述した古老たちの話の多くを一刀両断に切り捨てるのはもったいない気がしてなりません。 そして小松伸六氏は次のような事も解説の中に記しています。

「この作品は一等史料であり、とくに新選組を書く場合には、これを抜きにしては語れないことは、 あらゆる作家が口をそろえて言っていることなのだ。」と・・・・・

-参考・引用「新選組始末記」(子母沢寛氏/角川文庫)-






【孫子の兵法の事】
(2014年3月21日)

「孫子」は中国の春秋時代末(今から2500年ほど前)に孫武によって書かれたと言われる兵法書ですが、日本でも古くから軍事を学ぶテキストとして多くの人が通読していたようです。 当然、黒田官兵衛や竹中半兵衛も若き頃にこの兵法書を繰り返し読んだものと想像されます。ちょっとこじつけの感もありますが、その中から彼等の言葉や行動に影響を与えたと思われる孫子の言葉を取り上げてみようと思います。

孫子の兵法の事

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【棟上げの菓子袋の思い出】
(2014年1月3日)

以前は棟上げといって新築家屋の骨組みが出来上がると、餅を撒いたり近隣の子供たちに菓子の詰まった袋を振る舞ったりする風習がありました。 今でもこの様な習慣の残る地域もあると思うのですが、 私も数十年前の小学6年の頃にこの棟上げの情報をつかみ悪友たちと菓子袋を貰うため行列に並んだことがありました。 菓子袋を受け取りソフトボールの続きをするため空き地に戻っていると後ろの方から 「2回目貰っちゃったもんね。もう残り少なかったから貰えないかもよ」と1コ年下の男児の声が・・・ それを聞いた私と悪友たちはこの5年生のことを「この欲張りやろう!」と思いながらも先に貰った菓子袋を隠しダッシュで棟上げ会場へカムバック、 しかし敵も然るもので菓子袋を配るおばちゃん達は 「だめだめ、アンタたちさっき来てたっぺ」と追い払われてしまいました。

話は突然 遡って西暦1600年。 「関ヶ原の戦い」が起こると、豊前・中津にあった黒田如水は九州の西軍の城を攻略するため兵を集めます。 そして募兵に応じた浪人や百姓たちに、質素倹約で貯め込んだ金を惜しげもなく配ります。 その時 支度金を受け取るため列に並んだ者たちの中に二度目の金を受け取ろうとする者がいることを知った如水ですが、 怒りもせず笑って知らぬ顔の半兵衛を決め込んだと言われています。

あの棟上げの日から数十年経った今となっては 「できるだけ多くの子供たちにを菓子袋を配りたい」というおばちゃん達の気持ちが理解できる様になったのですが、 如水のような気っ風の良さを未だに持ち合わせることができないのは、懐の大きさの問題なのでしょうか・・・。

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【官兵衛的な人たち】
(2013年11月3日)

えらく豪胆な人、すごく気配りのできる人、運動神経が超人的な人、仕事が超速い人、信じられないぐらいな美形な人。 永年 社会で仕事をしていると色んな面で優れた人とめぐり合うもので、私も「この人なんでこんな頭ええんやろ」 と感じる人とめぐり合った事が何度かありました。その中でもっとも印象に残った人の話です。

その人はあるシステム開発を行うため立ち上げられたグールプのリーダーで一見は普通の人でしたが、仕事に関しては凄い人でした。 ある日、仕事を上って二人で駅まで歩いている時の事、その人は始終無言だったので「なんか機嫌わるいのかな」と思い 自分の方から話しかけると「ああっ、そうだね」「ああーっ」とか答えるだけでその後沈黙。3回目に話しかけると 「ああっ、ちょっと今話しかけないで考え事してるから・・・・・」。 (気が届かなかった自分も悪いけど、そんな言い方しなくても・・・) と唖然とする私を尻目にリーダーは無言で思考中。 しかし、駅に着くと「ごめんごめん、さっきの話なんだったっけ。」・・・
私はその時にやっと気付いたのです。 紙やペンがない時も、そして歩いている時にも、その人の頭の中はプロジェクトを完全遂行するための緻密なシミュレーションが行われていたことに・・・

そしてもう一人、印象に残っているのは数年間一緒に仕事をした同僚で、物事のパターンを掴み取ることが巧みな人でした。 「こんな時はこの人はこんな行動を、あの人はこんな行動を・・・」と様々なパターンを頭の中で抑えているようなところがあり、 私も彼の心理作戦の罠に引っ掛かってダチョウ倶楽部のネタ「どうぞどうぞ」の竜兵師匠の役回りを演じさせられしまった事が幾度かありました。
そしてその同僚の才能は人間関係以外でも仕事はもちろんマージャン・パチスロの域にまで(あくまでも趣味のレベルで)発揮されていました。 しかし その才能も生まれ持っただけのものではなく、 常に情報収集を怠らないという努力の上に裏打ちされたものではなかったのだろうか?とその頃の事を振り返るとそう思えてきます。

話は移って戦国時代。 豊臣秀吉が長い間 考え抜いた事柄を黒田官兵衛に問いかけてみると、官兵衛は即座にその解答を導き出し、秀吉を驚かせます。また それが一度や二度ではなかったので、秀吉も官兵衛の能力を尊敬する一方で畏怖心も芽生えたといわれています。 しかし官兵衛はその難問に本当に一瞬の閃(ひらめ)きだけで即座に答えたのかは個人的には疑問に感じます。 独自の情報網を駆使し、様々な人々と会い情勢を語らい、また寝床でも厠でも情勢分析、シミュレーションを常日頃から怠らず、 またそれらの努力を苦としない官兵衛の姿がこの逸話の向う側に想像できるのですが・・・・・。
もしかすると秀吉は官兵衛の閃きの速さに驚いたのではなく、 天下取りを目指す自分と同じ目線で情勢を分析する官兵衛の視線の高さ、視界の広さに戸惑いを感じたのかもしれません。

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【宮古の思い出】
(2013年9月12日)

1987年頃の事だったと思いますが、バイクでの一人旅、北海道へ向かう途中の岩手県での話です。
「新選組副長の土方歳三率いる幕府軍が最新鋭軍艦『ストーンウォール号(米名)』を奪い取るため官軍に奇襲かけたという 海をひとめ見たい。」という思いで宮古市を宿泊予定地にしていました。しかし宮古市に入る直前から大雨に降られ、 全身びしょ濡れ、予約もとっていなかったため泊まる所もなく、あてどもない宿探し、盆の連休中ということで どの宿も満室の門前払い。日は沈みドシャ降りの中、途方に暮れます。 とりあえず、ガタガタ震えながらの濡れネズミ状態で漁港近くの食堂に入ってみると 案の定、大将とおかみさんが怪訝な視線で注目・・・・・。しかし事情を話すと解ってくれたようで、 近くの「サウナ新幹線」という店に電話をし空きがあることを確認してくれました。ちょっと大袈裟に聞こえるかもしれませんが、 そのときは本当に九死に一生という思いでした。出てきたカツ丼と焼そばの味がわからない位に寒かったのですが、 人のありがたさが身にしみた出来事でした。

2011年3月11日、東北大震災が起こりその思い出の町も津波にのまれました。 あの時の大将とおかみさんへのお礼のつもりでほんの僅かですが義援金を宮古市に送らせていただきました。 もうお二人は七十に近いご年齢でしょうが、ご無事でいらっしゃることを願うばかりです。 また東北東沿岸のすべての地域が元の活気ある町に早く戻れるように願わずにはいれません。






【三国志について】
(2013年8月14日)

「邪馬台国はどこ?」の冒頭で「皆さんよくご存知の『三国志』には・・・」と書いてしまいましたが、 正確に書くと日本で一般的に知られているのは晋の時代に陳寿によって書かれた史書の「三国志」ではなく、 明の時代に書かれた羅貫中の「三国志演義」になります。 この「三国志演義」は「三国志」を元に書かれた読み物(小説)で歴史書ではないのです。 三国志本の愛読者はこの辺りの事情をよくご存知でしょが、 劇画や映画・人形劇などでのみで三国志に触れられた方は、 一度、吉川英治氏の「三国志」とその八巻の解説をご参照いただければご理解いただけると思われます。
ただ血湧き肉躍る「三国志」を演出してくれた羅貫中の功績は大きく、 「三国志演義」は「三国志」という名で現在も世界各国で読み継がれています。

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【「御堂関白記」が世界記憶遺産に登録】
(2013年8月8日)

6月18日に藤原道長の「御堂関白記」がユネスコの「世界の記憶」に登録されました。 日本の古典が世界に評価されるのは非常に喜ばしい事ですが、この人は結構傲慢な人間性の持ち主だったようです。 平安時代中期に兄・藤原道隆が大酒が原因で死去すると、その権力を継承し藤原氏の全盛期を築きます。 そしてこの時期に道長は朝廷で思い通りならない事はなかった様で

この世をばわが世とぞ思ふ もち月の欠けたることのなしと思へば
「この世は私の世ように思える。満月のように何も欠けるものがない。」
と「北斗の拳」のラオウでさえもはばかる様なことを詠っています。

ちなみに当ページの「刀伊の海賊を撃退した男」で紹介した藤原隆家はこの道長の甥にあたり、 父・道隆の権力を継承したこの叔父との確執に嫌気が差し、自ら大宰府へ赴任したといわれています。