久留米



【水天宮】(久留米市京町)



水天宮の起源は高倉平中宮(徳子-平清盛の娘-)に仕えた按察使局(あぜちのつぼね)伊勢が「壇ノ浦の戦い」後、筑後川の辺の鷺野ヶ原(さぎのがはら)に逃れて安徳天皇、高倉平中宮、二位の尼(時子-平清盛の妻-)を祀ったものといわれています。 鷺野ヶ原で伊勢は、剃髪し千代と改め、加持祈祷などを行い里人に尊崇され、その社は尼御前神社と呼ばれたといいます。 現在、境内にある「千代松神社」はこの按察使局伊勢を祀ったものです。
ところで『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』の平時子のページでは「『吾妻鏡』では時子は宝剣を持ち、安徳天皇は按察局が抱いて入水したとあり、按察局は引き上げられて助かっている。」と記載されていますが、この「按察局」が伊勢ではないかと考えられます。
その後、水天宮は幾度か移されますが、1650年久留米藩二代藩主の有馬忠頼が土地と社殿を寄進し現在の位置に遷座、今日に至っています。
また、水天宮の境内には「禁門の変」で天王山に散った尊王派の中心的志士、真木和泉の銅像や謹慎時代を過ごした家屋「山梔窩」、真木和泉とその同士を祀る「真木神社」、「軍艦千歳慰霊碑」などの史跡が多数存在します。



この記事は「全国総本宮 水天宮」のサイト「祭神・由来」のページを参考、引用させていただきました。


「平時子」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2011年8月21日(日)10:40
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6
%99%82%E5%AD%90



関連記事:水天宮




【真木和泉史跡】(水天宮境内)




【山梔窩(くちなしのや)について】
真木和泉守保臣先生は同士と共に久留米藩を改革しようとして却ってこの地を南に去る十六○(不明) 水田村(現在の筑後市水田区)弟大鳥居信臣のもとに謹慎を命ぜられた。
その翌年庭の一隅に小さな家を建て、山梔窩と名づけ自炊の生活を送りつ、 付近の子弟を教育し後には久留米から参加する者もあり多くの人材を養成した。 これからの門下生には後には幕末の動乱に活躍し国難に仆れたものが少なくない。 また平野国臣を始め諸国の同士の来訪もあり、これらと連絡して策を練り、 朝廷に上書するなど、この山梔窩は尊皇倒幕の一大策源地となった。 幽居十一年時勢の急迫と共に

           やがて世の春に匂はん梅の花
              かた山里の一重なりとも


一首の和歌を書き残して脱出し、明治維新を目指して、その中心的指導者として活躍した。 この建物は史料により当時のものをこの地に模して建てたものである。

山梔窩の案内板より


真木和泉像

真木和泉守保臣(一八一三~一八六四)は明治維新の中心的指導者である。
水天宮神職の家に生まれ、早く父を失ったが、よく母に仕え、かねてから学問に励み、武道、 音楽にも長じ、藩校明善堂から表彰をうけた。傍らに流れる筑後川は菊池一族の誠忠を語り、 少年の時に愛読した絵本楠公記は尊皇愛国の精神を培い、長じては水戸学を中心に学識を深め、 しかも身をもって実践した。
藩政改革を企ててならず、一時水田に蟄居したが、後に脱出して東奔西走、 国事に盡し諸国の志士から「今楠公」と謳われ、その中心的指導者と仰がれた。
彼は蘭方医工藤謙同と親しく、外国の事情にも通じ久留米の医学刷新に盡し、 久留米藩医学舘の生みの親といわれる。また早くから薩長連合を唱えたが、時到らず、 長洲藩と共に倒幕の軍を起し禁門の変に破れ、同士十六人と天王山に登り辞世の和歌を残して自刃した。

     大山の峰の岩根に埋にけり
               わが年月の大和魂

真木和泉像の案内板より







【真木神社】(水天宮境内)




【御祭神】
主神 贈正四位 真木和泉守保臣命
当水天宮第二十二代の大宮司にして藩政の改革子弟の教育、尊王、 討幕明治維新の中心的指導者として活躍し禁門の変において国難に殉ぜられた。

相殿 明治維新に際し国難に殉ぜられた一門及び門下生
贈従四位 大鳥居啓太信臣命 贈従四位 真木菊四郎弦命
贈従四位 原道太盾雄命 贈正五位 牟田門吉成久命
贈正五位 渕上郁太郎祐広命 贈正五位 古賀簡二磐勒命
贈従五位 渕上謙三祐利命 贈従五位 鶴田陶司孝良命
贈従五位 水田謙二 恒命 贈従五位 酒井伝次郎重威命
贈従五位 中垣健太郎幸雄命 贈従五位 荒巻半三郎眞刀命

相殿 天王山にて真木保臣先生と共に国難に殉ぜられた十六烈士
贈正五位 池尻茂四郎懋命 贈正五位 松山深蔵正夫命
贈正五位 加藤常吉任重命 贈正五位 酒井庄之助直則命
贈正五位 松浦八郎寛敏命
肥後藩
以上久留米藩
贈正五位 安藤直之助強恕命
贈正五位 松田五六郎安定命
筑前藩
贈従四位 千屋菊 郎孝健命
贈正五位 西島亀太郎頼秋命 贈従四位 広田精一執中命
宇都宮藩
肥後藩
贈正五位 能勢達太郎成章命
贈正五位 小坂小次郎雄宗命
土佐藩
贈正五位 宮部春蔵増正命 贈正五位 岸上弘安臣命
贈正五位 加屋四郎時雄命
以上宇都宮藩
贈正五位 中津彦太郎直義命


真木神社の案内板より


真木神社の案内板より







【久留米城跡】(久留米市篠山町)




久留米城趾

【久留米城趾】
戦国時代より土豪・豪族の間に、この古城をめぐって興亡の歴史を綴りながら、 元和七年(1621)有馬豊氏丹波福知山より転封入城し、 以降廃藩に至るまで十一代二百五十余年の間、 有馬家累代の居城として藩府が置かれていました。
本城は北西に筑後川を自然の濠とし、天恵の地勢を活用したすこぶる険要の地にあります。 築城法は平山多聞造りで、高い白土の城壁にそびえたつ二層と三層の七つの櫓があり、 本丸東南隅の三層建の巽櫓は壮大な偉容を誇っていました。
現在は石垣だけが残り、場内には有馬三氏を祀る篠山神社や、 有馬家資料を展示する有馬記念館があります。春は花見、六月はしょうぶ、 八月二十五日には鈴虫際と、市民の憩いの場となっています。

久留米城趾の案内板より



永正年間(1504~21)に筑後川ぞいの小高い山に築かれた平山城が、久留米城の始まりとされる。 高良山勢力の出城であったらしく、天正11(1583)年から3年間、 高良山座主麟圭(りんけい)はこの城に籠り、豊後大友氏と戦っている。
天正15年、豊臣秀吉の九州国割により、久留米城には毛利秀包(ひでかね)が入城する。 関ヶ原の戦いで毛利家が断絶すると、田中吉政が筑後一国の領主となり、 筑後北部の支配の拠点であるこの城には次男則政が置かれた。
元和7(1621)年、有馬豊氏が田中家の改易をうけて筑後北半21万石の大名として入城し、 幕末まで有馬家の城下町として栄えることになる。
有馬家は入国当初から約40年かけて、廃城となっていた久留米城の大改修を行い、 本丸・二ノ丸・三ノ丸・外郭に濠を廻す連郭式城郭を建設している。 二ノ丸以下の郭にあった町屋・寺社を場外に移転させ、 それを守るような形で荘島・櫛原・京隈などの士屋敷を配置した城下町を作りあげている。
この城郭と城下町が現在の久留米市街地の骨格になっており、 市街地には往時をしのぶ多くの史跡を見ることができる。

久留米城下町の案内板より



関連記事:久留米




【首名塚】(久留米市大善寺町夜明神社内)


夜明神社内 首名塚

首名塚

道君首名は奈良時代はじめの貴族で、筑後国の初代の国司です。首名は国司として人々に農業の指導や灌漑の便を図るなど、民生の安定につとめました。最初は指導の厳しさに不満もでましたが、しだいに成果が上がるにつれて、名国司として従うものが増えていきました。在任のまま亡くなったため、人々は彼の徳を慕って祠を建て、おまつりをしました。 これが首名塚とも乙名塚とも呼ばれているこの塚です。

首名塚の立札より
首名(おびとな)は筑後や肥後で農政の改革を実施します。法律に詳しかった首名は解り易い箇条書きの法律を発布し農民をそれに従わせます。 農民たちは年寄も若者も「野良仕事もしたことのない役人に田畑の何が解るものか・・・」と不満を言い合ったのでしょうが、1~2年で首名の政策の効果が現れ始めると、みな首名に従うようになったといいます。 そして赴任した5年目に首名は病に倒れ死去します。筑後や肥後の人々は首名に感謝し、神として祀ったといわれます。


関連記事:首名




【高良大社】(高良山)




      御由緒

御祭神左殿 八幡大神
正殿 高良玉垂命
右殿 住吉大神
御神徳延命長寿・開運厄除
家内安全・商売繁盛など生活万般
御由緒高良大神は、悠久の昔から筑後川の流域に生活してきた人々が、その生活守護の大神様として奉持して参りました筑後国一の宮であります。御社御殿創建は履中天皇元年で西暦四〇〇年と伝えています。また、朝廷の御尊崇も篤く国幣大社に列せられ、古くは式内明神大社として勅使の御参向を得て祭礼が行なわれた。勅諚によって御神幸も初められました。江戸末期までは、神仏習合の思考のもと天台の僧徒多数奉仕し、山内に二十六ヶ寺三百六十坊もあったということです。
国指定重要文化財
建造物御本殿・拝殿(権現造・万治三年・西暦一六六〇)
石造大鳥居(明神鳥居)
史跡高良山神籠石
書跡紙本墨書・平家物語(覚一本)
天然記念物高良山モウソウキンメイチク林
福岡県指定文化財
高良大社所蔵文書一件絹本着色高良大社縁起他
天然記念物 境内大楠
天然記念物境内大樟
                
高良大社

高良大社の案内板より



関連記事:高良




【将軍梅】(久留米市宮ノ陣)


将軍梅

 正平十四年(一三五九年)の夏、征西将軍宮懐良親王を奉じた菊池武光らがこの地に陣を敷いた。親王は、念持仏である阿弥陀像をここに安置し、手向けに一株の紅梅をお手植になり、百万遍の仏名を唱えられたとされている。
 対する少弐頼尚は味坂(小郡市)に滞陣した。八月六、七日、両軍は入り乱れての血戦を交えた。これが有名な大保原の合戦である。
 戦いに加わり戦死した兵士は数干に及ぶといわれる。菊池武光の弟武邦は追慕のあまり出家して、この梅樹のほとりに庵を結び、親王の念持仏に戦死者の冥福を祈ったという。これが側の遍万寺である。
 星霜を重ねて、親王が手向けられた紅梅は老樹となり里人の語り草となって、この老梅樹を人々は「将軍梅」と呼ぶようになったのである。

久留米市

宮ノ陣神社にある将軍梅の案内板より


関連記事:将軍梅