わかっていない事

歴史って考えれば考えるほど面白い!!

「漢委奴国王」の読み方は? 
邪馬台国はどこ? 
卑弥呼は誰? 
狗奴国は「熊野」?「球磨」? 
神功皇后伝説は伝説? 
宇美町は不彌国? 
近江毛野の役職は? 
煬帝の返書の行方は? 
「隋書」の秦王国はどこ? 
「朝倉橘広庭宮」はどこ? 
金印はなぜ志賀島で発見された? 
金印はなぜ志賀島で…?その弐 
福岡城に天守はあったか? 
「筑前宮崎村」はどこにある? 



【「漢委奴国王」の読み方は?】
 -「倭」は「委」から生まれた新漢字?-

亀井南冥「金印鑑定書」
金印「漢委奴国王」の読み方は「漢の倭の奴の国王」という読み方が通説となっているようで、高校の授業でもそう教えられた記憶があります。また福岡市博物館のサイトにも「王朝名(漢)の次に民族名(倭)、そして部族名(奴)がくるので、漢ノ委ノ奴ノ国王という読み方が代表的な解釈です」といった事が記載されています。
この説でひとつ引っ掛かるのは「倭」が「委」になっていることです。一般的に、これは「イ(にんべん)」が略されたものと考えられているのですが、実際「倭」という漢字が誕生したのがどうも金印が製造された後の事ではないかといった事が考えられるのです。
具体的に説明すると、中国統一後の時代は

秦(BC221-BC206)

漢(BC206-8)

新(8-23)

後漢(25-220)

三国時代(220-280)

晋(265-420)

五胡十六国(304-439)

南北朝(宋・北魏)(439-589)

と変遷するのですが、この中の後漢の初代皇帝の時代に金印は送られています。そして「倭」という文字が載る書物、三国志の「倭人の条」は晋の頃に書かれ、金印の事が記載される「後漢書」は南北朝時代の南朝・宋の時代に書かれています。この二つの書以外にも「論衡(ろんこう)」というものがある様ですが、こちらも金印が奴国王に送られた同時期か、それ以降に書かれたものの様です。また「漢書」にも「倭」は記載されているようですがこちらも後漢に書かれた書物になります。このように金印が製造される以前(西暦57年以前)に「倭」という文字は見当たらない様なのです。(調査不足かもしれません。もしあったら申訳ありません。)
またネットで調べたみたのですが、「倭」という漢字は「日本」ということ以外の意味を持っておらず、東方の島国を表すために創作された文字に違いない様です。これ等の事より、「倭」は後漢以降に派生した文字の様な気がしてならないのです。もしかしたら公文書を管理する後漢代の学者が「委」に単に「イ(にんべん)」を付け足して作った新漢字なのかもしれません。
この様な考えからすれば、「倭」を略して「委」と刻んだのではなく、金印に刻まれた「委」が先で、何らかの誤解が起こり「イ(にんべん)」を付け足したという順番が考えられるのです。

以下に根拠のない想像のみの説を書いてみます。
金印「漢委奴国王」は「漢の委任した奴国王」という意味で彫られたものでしたが、その判を見た後漢の歴史家が「委」を民族名と勘違いし、文章に頻繁に使用される「委」を民族の固有名詞として扱うのは差し障りがあると考え「イ(にんべん)」を付加し当て字を作ります。後代の史家はこれに倣い、日本の事を「倭」と記述したのでは?
こんな事を推測していると「カン・イ・ナコクオウ(漢の委任した奴国王)」という読み方も一説として有りなのではと感じるのですが・・・

たぶんこの説は、過去の日本の歴史家の説として挙がっているのかもしれません。正誤は別にして普通に読めばそう読めてしまうのですから・・・


写真は福岡市博物館に展示される亀井南冥の「金印鑑定書(複製)」です。ここには『唐土し書。本朝を倭奴国と省之は委字ハ倭字を略したる者と相見えん』と書かれ、内容は『中国の史書には日本を倭奴国とする。この金印の「委」は「倭」を略したものと考えられる。』といった意味だと思われます。






【邪馬台国はどこ?】
 -魏志倭人伝の謎-

皆さんよくご存知の「三国志」には、「魏書」(曹操の起てた国の史書)という巻がありその中の「東夷伝」のまたその中の「倭人の条」に、邪馬台国までの道筋が記載されています。この「倭人の条」のことを日本では一般的に「魏志倭人伝」と呼び、昔から邪馬台国の所在地論争の元となっています。その道筋を略すると次のとおりです。


①倭国は朝鮮帯方郡(朝鮮半島中西部)から見ての東南の海に浮かぶ島国であり、山が多い国である。昔は百余国が並立し、漢の時代に朝見する者もあった。現在では、わが国と交流がある国は三十国ほどである。帯方郡より倭国に行くには、海上を海岸線に沿って南下し、その後東に向かい朝鮮半島の南岸に至る。7000里程の航海である。

②朝鮮の海岸線を離れて1000里程海を渡ると対馬国に至る。その国は孤島で400里四方の大きさであり、土地は険しく深林が多く、道路はけものみちの様相を呈している。1,000戸あまりの民家がある。良い農地はなく、海産物を主食とし自活し、船にて朝鮮や倭国と交易を行っている。

③南に向かって1000里程進むと一大国(壱岐)に至る。300里四方の大きさで、竹林や雑木林が多く、3,000戸あまりの民家がある。多少の農地はあるが農作物で自活できるほどではなく、船にて朝鮮や倭国と交易を行っている。

④また南に向かって1000里程海を渡ると末盧国(唐津)に至る。山際の海岸沿いに4,000余戸あまりの民家があり。前を行く人が見えないほどに草木が茂る。住民は海の深い所、浅い所関係なく潜って魚貝類を捕獲する。

⑤東南へ500里程、陸路で進むと伊都国(糸島)に至る。1,000戸あまりの民家がある。王は存在するが邪馬台国に統属し、帯方郡の役人が往来し公使館もある。

⑥東南に100里進むと奴国(那国)に至る。20,000戸あまりの民家がある。

⑦東に向かって100里進むと不彌国に至る。1,000戸あまりの民家がある。

⑧南方に向かうと投馬国に至る。海路で二十日間程の行程である。50,000戸程の民家がある。

⑨南方に向かうと邪馬台国に至る。女王が所在する都である。海路で十日間、陸路でひと月程の行程。70,000戸あまりの民家がある。

(詳しい方には申し訳ありません。解かり易くするため強引すぎる訳になっているかもしれません。)

上記の通り、邪馬台国へ行程は記されています。①は朝鮮半島、②~⑤は対馬~壱岐~唐津~糸島に関する記述であることが解かります。そして⑥の奴国とは伊都国(糸島)からの距離や方角、「那の津」など地名が現存する事から福岡市周辺の地域である事が解かっています。

ただ奴国以降の、「不彌(フミ)国」、「投馬国」、「邪馬台国」の所在地がいまだに明らかになっていません。「不彌(フミ)国」とは民家戸数比較や距離、方角、歴史の深さからして山間にある現在の宇美(ウミ)町のことではないかと想像ができます。しかし、「不彌国」を宇美町と断定できない理由は、「不彌国」から「投馬国」への道筋が海路になっていることです。⑧の記述の通り、「不彌国」から「投馬国」への道筋が海路であるならば、当然、不彌国には港町がなければなりません。といっても奴国より東の海岸沿いに発音的に「フミコク」にあてはまりそうなこれといった町が見つかりません。この辺りから邪馬台国の道筋があやふやになって来るのです。

また「投馬国」「邪馬台国」の「方角」と「行程日数」が正しいとするならば、この時代には九州の南方海上に大陸が存在したこととなります。しかし、これはあまりにも非現実的なので、歴史研究家は「方角か行程日数のどちらかに間違えがあるのでは?」と考えたのです。邪馬台国「九州説」の研究家は「方角」が正しいとの説を採り、「畿内説」の研究家は「行程日数」が正しいとの説を採っています。

ここからは想像になりますが「奴国」より後の情報は奴国人よりの聞き伝えで、且つ行程は「奴国」より枝分れしていると考えれば、海に接していない宇美町が「不彌(フミ)国」としても説明が付きます。また「畿内説」を採った場合、「奴国」の2倍以上の民家の戸数を持つ 「投馬国」は現在の大阪周辺の一都市と仮定できます。しかし説明できるのはここまでで、「邪馬台国」の所在地までは推し量ることはできません。

雲の向こうに存在する幻の都「邪馬台国」は、思考錯誤してもなかなか手が届きません。このページをご覧いただいた方にも一度「魏志倭人伝」と「現代地図」を手にして、自分なりの幻の都の所在地を探っていただければと思います。


この記事を書くにあたって鯨統一郎氏の「邪馬台国はどこですか?」を参考にさせていただきました。鯨統一郎氏は「邪馬台国はどこですか?」の中で主人公の宮田六郎に「邪馬台国東北説」という斬新な説を語らせています。非常に面白い文庫本なので書店で手にとってみてください。






【卑弥呼は誰?】
 -百襲媛(ももそひめ)は鬼道につかえる?-

「魏志倭人伝」には卑弥呼に関して次のような記述があります。

「 ~前略~ 一女子を立てて王となす。名を卑弥呼という。鬼道に事(つか)え、よく衆を惑わす。この年長大なるも、夫婿なく、男弟あり佐けて國を治む。王となりて以来、見(まみ)ゆる者少なく、婢千人を以て自ら侍せしむ。ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え居処に出入す。 ~以下略~」

卑弥呼の説としては、次のようなものがあります。

①西暦300年前後に大和朝廷に滅ぼされた王朝の女王説
②神功皇后説
③倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)説
などの他、様々な説があります。

①の説は「邪馬台国」と「大和朝廷」はまったくの別物と考え、卑弥呼の「邪馬台国」は倭国共和国を代表する国で、のち狗奴国(または他の国)により滅ぼされた国とする説です。そして「邪馬台国」を滅ぼした国が大和朝廷となったという訳です。邪馬台国九州説をとる場合は総じてこの説に行き着くものと思われます。
②の説は日本書紀に注釈として書かれている説ですが、卑弥呼と神功皇后は年代が100年ほどずれているのが気になります。
③の説は「邪馬台国」が後の「大和朝廷」とした場合、一番可能性の高い説だといわれています。

そこで倭迹迹日百襲媛命、略して百襲媛(ももそひめ)について触れようと思います。

西暦200年代の後半と思われる崇神天皇の時代に疫病が発生し猛威を振るいます。各地で流浪の民が疫病と飢えに倒れ、道端には無数の屍が放置される凄惨な状態が続きます。そこでこの疫病を鎮めるため崇神天皇は祖父孝元天皇の異母兄妹の百襲媛(ももそひめ)に頼り神託を受けます。そして大田田根子という人物に大物主神(おおものぬしのかみ)を祀らせると、疫病は治まり国にも平和が戻ったといいます。
また崇神天皇は中央集権国家づくりのため、「四道将軍」を東海、北陸、丹波、山陽へ派遣しますが、その隙を突いて叔父(伯父?)の武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)が反乱を起こします。これを予知した百襲媛は「今すぐに対応しないと遅れをとることになるだろう」と告げます。崇神天皇はすばやく行動を起こし、大坂へ軍を進めてきた武埴安彦命の妻・吾田姫(あたひめ)を「四道将軍」の山陽道方面軍に討たせ、山背より攻めてきた武埴安彦命軍には北陸方面軍を向わせ撃破します。
このような特異な能力を発揮する姿を描かれた百襲媛が「鬼道につかえ、能く民衆を惑わす」卑弥呼に重なり同一人物説となったようです。また「卑弥呼」の読みは百襲媛命(ももそひめのみこと)の最後部分の「ひめのみこと」が「ひめこ」→「ひみこ」になったのではないかといわれています。
現在の奈良県桜井市の箸墓古墳(はしはかこふん)が百襲媛の墳墓といわれていますが、その規模が「大きな冢(ちょう-墓-)を作る。径百余歩あり。」(魏志倭人伝)という卑弥呼の墓の大きさとほぼ一致するということです。

関連記事:卑弥呼,百襲媛






【狗奴国は「熊野」?「球磨」?】
 -卑弥呼に属せずの「狗奴国」-

狗奴国(くなこく)は直接、福岡に関係ありませんが、「狗奴国=熊襲」の場合は間接的に関係してきます。
魏志倭人伝に記載される邪馬台国の敵国「狗奴国」は、熊野国(和歌山県)、球磨国(熊本県)、出雲、美濃地方の豪族など諸説あります。
以下、魏志倭人伝の抜粋です。

「南、邪馬台国に至る。女王の都する所なり。水行十日、陸行一月。  ~中略~   次に斯馬国あり。  ~中略(19カ国名あり)~  次に奴国有り。此れ女王の境界の尽くる所なり。その南に狗奴国あり。男子を王となす。その官に狗古智卑狗あり。女王に属せず。」

「その南」の「南」は「北」と解釈されます。これは当時の中国では、日本列島の南北が逆になっていたためです(この様な地図も残っているようです)。この事より「美濃地方の豪族」といった説が濃厚だと思われています。しかし九州内の南北は当時の中国で理解されていて且つ「その南」の「その」が「倭国(の奴国)」を指していれば、球磨国(熊本県)説も浮上し、「狗奴国」と南九州地方の「熊襲」は同一民族ということになります。また「その官に狗古智卑狗有り」の「狗古智卑狗」は「かくちひこ」と読みこれが、「菊池」という地名に関連するのではとの説もあります。 この説とは別に「かくちひこ」は「河内」につながるのではないかとの考え方もあります。 この場合「その南」の「その」は「倭国」ではなく「邪馬台国」のみを指すことになります。方角の解釈は難しくなりますが、これが熊野国(和歌山県)説になります。以上の説は「邪馬台国畿内説」を前提としていますが、「邪馬台国九州説」を採ると当然、狗奴国は「球磨国」で熊襲である可能性が高くなります。
これらの説とは別に「国譲り伝説」や「四道将軍」の四方面のひとつの方面が「山陰道」ではなく「丹波道」になっている事から山陰地方の丹波の先の国「出雲」が狗奴国ではないかとの説もあります。

関連記事:狗奴国,熊襲






【神功皇后伝説は伝説?】
 -朝鮮半島への進出-

仲哀天皇とその皇后、神功皇后は実在の人物かどうか意見が分かれているようですが、実在の人物と仮定すれば、西暦300年代前半あたりに存在した人だと思われます。以下は2人が存在したことを前提に話を進めます。 仲哀天皇は祖父の景行天皇や父の日本武尊(やまとたけるのみこと)と同様に、熊襲(くまそ)平定を目指し九州に入ります。しかし仲哀天皇は橿日宮(香椎宮・福岡市東区香椎)で突然亡くなります。これは同行した神功皇后に「熊襲より新羅を攻めるように」と神託があったにも関わらず、仲哀天皇はそれを信じず、神の怒りが下ったためと古事記に書かれています。
その後、神功皇后は新羅と戦うために朝鮮半島へ渡ります。神功皇后はこの時、後の応神天皇を身ごもっていましたが、出産を遅らせるために石をお腹にあて冷やしたといわれています。この石が「鎮懐石」といわれ糸島市二丈町深江の「鎮懐石八幡宮」に祀られているとのことです。そして神功皇后は帰国後、宇美八幡宮で応神天皇を生みますが、これが安産であったことから宇美八幡宮は安産祈願の神社として知られるようになりました。

神功皇后の朝鮮遠征が何年頃のことなのか確かなところはわかっていませんが、西暦300年代に、三国動乱時代(高句麗、新羅、百済)の朝鮮へ倭国が干渉して行ったのは確かな事だと思われます。 倭国軍は朝鮮南岸、百済と新羅の間の伽耶に駐屯し百済と連携しつつ、新羅、高句麗と戦ったといわれ、その行動は高句麗の「広開土王陵碑」やその他の各国の史書に記載されています。そして倭国の朝鮮駐屯は新羅が伽耶を併合した西暦500年代中頃まで二百年程続いたものと想像されます。

以上、神功皇后が実在の人物と仮定した場合の話ですが、神功皇后は日本武尊、仲哀天皇と共に実在しなかったのではないかといった説も根強くあります。しかし九州北部には神功皇后を祀る神社や史跡があまりにも多く存在するという事実だけは否定できないのです。






【宇美町は不彌国?】
 -「日本書紀」の宇美町の地名由来-

「邪馬台国はどこ?」でも書いたように「魏志倭人伝」に記載されている「不彌(ふみ)国」は民家戸数比較や距離や方角からして 現在の宇美(うみ)町の可能性が高いのですが、「宇美(うみ)町=不彌(ふみ)国」という事を断定できない理由は宇美町に港がないということでした。 しかし、もう一つそれを否定するような記述が「日本書紀」にあるのです。 その内容は「朝鮮より帰還した神功皇后が筑紫で応神天皇を産んだが、人々はその場所を宇濔(うみ)と呼ぶようになった。」というものです。
もしこの事が事実であれば、「宇美」は神功皇后時代以後の呼び名となるわけで、神功皇后時代から100年ほど前の卑弥呼の時代の「不彌国」とは別ものになってしまうのです。何故なら卑弥呼の時代に「宇美(濔)」という呼び名は存在していないことになるからです。

「宇美(うみ)町=不彌(ふみ)国」という立場で考えると「日本書紀」の「宇美(濔)の由来」は真実か否か?神功皇后が応神天皇を産んだ以前に「宇美」は本当に存在しなかったのか?といった謎が深まるのですが、どちらにしても「魏志倭人伝」に記載されている奴国からの距離より「不彌国」が現在の福岡県内にあったのは間違いないようです。 この「不彌国」の所在地が判明するようなものが発見されれば、幻の邪馬台国へもう一歩近づけるのかもしれません。






【近江毛野の役職は?】
 -「磐井の乱」の近江毛野は将軍それとも使者?-

527年、継体天皇の意を受けた近江毛野(おうみのけな)は新羅と戦うため兵6万を率い任那に向かいますが、途中の九州で国造の磐井が乱を起こしこれを阻みます。 日本書紀の継体記によると行く手を塞いだ磐井は近江毛野に「お前は今は使者として来ているが、俺たちは昔、肩や肘をすれ合わしながら同じ釜の飯を喰った仲だ。急に王の使者と言われても『はいそうですか』と簡単には従えない」といった内容を大声で言い放ったといいます。 不思議なのはここで近江毛野は「使者」となっている事です。兵6万を率いた者を普通は使者とは呼びません。このことより近江毛野は6万の兵を率いたのではなく、兵6万を集めていたのではと疑問が湧いてきます。実際のところ近江毛野は6万の兵を率いたにも関わらず、出兵命令を拒否した磐井と一戦交えたという記述が日本書紀には見当たらないのです。
あくまでも想像の域を出ないのですが、近江毛野は若かりし日に朝鮮で共に戦った戦友の磐井に朝鮮出兵の兵を出すよう命令しますが、現状の朝鮮半島での形勢不利を身をもって知っている磐井は出兵に理がないことを説き、これを拒否します。近江毛野は当然この件を大和に伝えますが、継体天皇はこれを新羅と結んだ磐井の反抗と受け取り、物部麁鹿火(もののべのあらかい)を派遣し磐井を討った。という流れが思い浮かびます。ちなみに筑後国風土記には「突然官軍が襲ってきた」と記されているそうです。






【煬帝の返書の行方は?】
 -小野妹子、返書の提出できず!-

中国の南北朝の時代の混乱が終わりを告げ、隋が中国をほぼ統一すると大和朝廷は遣隋使を派遣します。 遣隋使の船は出発時も帰還の際も那の大津(博多より2㎞ほど西方)を寄港地としていたようです。 607年、第二回遣隋使の小野妹子は「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなしや」といった書状を隋に届けますが、この内容を知った隋の皇帝・煬帝(ようだい)は取り次いだ者に「この様な書状は二度と持って来ないように」と不機嫌になったといいます。 そして煬帝は返書を小野妹子に託しますが、帰国した妹子は返書を提出せず「返書は百済を通った際に百済人によって奪われました」と報告します。 これは隋の返書が好意的なものではなかったため妹子が自ら破棄したのではないかと考えられているのですが、この返書にはいったい何が書かれていたのか今となっては歴史の謎となっています。






【「隋書」の秦王国はどこ?】
 -筑紫の東にあった中華風な国とは?-

隋の煬帝(ようだい)は日本からの使者・小野妹子が帰国する際に裴世清(はいせいせい)を使者として付けますが、その時の道筋が唐時代初期に書かれた「隋書」に記載されています。

百済を渡り(朝鮮半島の西沿岸を航行し)、竹島(珍島?)に至り、耽羅(たんら・済州島)の北を通る。そして大海の中にある対馬国を経て、そこから東(南東)に進み壱岐国に至り、次に筑紫国に至る。そこから東に向かうと秦王国に至る。ここに住む人々は華夏(中華)の風習を持ち、もしかしたらここが夷洲(いしゅう)なのかもしれないが、断定は出来ない。 また十余国を経て海岸に達す。

筑紫国から「秦王国」への道筋が、もし陸路ならば「海岸に達す。」という言葉より「秦王国」とその他の十余国は九州北部沿岸にあった小豪族の支配する各々の領地の事で、海岸というのは関門海峡に接する門司辺りのことだと思われます。この仮説を元にすると「秦王国」は恐らく那の津から東方のそう遠くない場所にあった地域だと想像できます。平安時代には博多湾内東方部の港町・箱崎に多くの宋商人が住んだ大唐街があり繁栄したといわれていますが、 宋の時代より500年程以前の隋の時代には、日本書紀にも登場する宗像氏が海外と頻繁に貿易を行ったと想像され、もしかしたらこの宗像氏の住んだ地域に近い津屋崎周辺に中国商人もしくは朝鮮商人の居住区があったのかもしれません。
ただ裴世清は返礼の贈物を運んで来ているので、畿内までの交通は最後まで海路だった可能性が高く、こうなると「海岸に達す。」の海岸は大阪辺りの港町の事で、「秦王国」は現在の山口県辺りにあった国になるのかもしれません。

上記の説では「秦王国」を中国または朝鮮商人の居住区としましたが、遣隋使が開始されたのが西暦600年の事で、その約20年前には中国南北朝の戦乱が終わり隋が興った時期であり、朝鮮では40年前に新羅が伽耶を併合しており、その時代背景よりこれらの戦乱で土地を追われた人々が日本に流れ着き住み着いたのがこの「秦王国」ではないかといった事も考えられます。

ところで両国の使者、小野妹子と裴世清の関係がどのようなものであったか「隋書」にも「日本書紀」にも記載されていないため推測するしかないですが、お互いに両国に差し障りのないように心を砕いた様子が二つの書物よりにじみ出ています。妹子も世清も国を代表する外交官という立場なので、互いに愚痴を言い合うような事はなかったでしょうが、「お互い、使者の役目はたいへんなことですなあ」と心は通っていたのかもしれません。 裴世清は1ヶ月ほど都に留められますが、「使者としての仕事はもう済んだので、早く返してもらえまいか」と早々に帰国したい旨を伝えています。そして妹子は裴世清の帰国に随行し再び隋に渡りますが、その後、両国の交流は絶えてしまったと「隋書・倭国」の項は締められています。

関連記事:秦王国,裴世清






【「朝倉橘広庭宮」はどこ?】
 -斉明天皇崩御の地-
「橘廣庭宮之蹟」の碑

中大兄皇子の母、斉明天皇は百済救援のため661年3月九州に入り「磐瀬行宮(いわせのかりみや)」(福岡市南区三宅)に滞在します。 5月には「朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや)」に移り、7月にそこで突然崩御します。原因は臣下も数人亡くなっていることから疫病のためではないかとの説があります。
貝原益軒の「筑前国続風土記」に「朝倉橘広庭宮」は朝倉市須川にあったと書かれており、現在その地に碑も建っています。 須川には奈良時代の長安寺廃寺跡がありますが、続日本紀には「天智天皇(中大兄皇子)が斉明天皇の冥福を祈って観世音寺と筑紫尼寺を創建した」と記されており、この筑紫尼寺が「朝倉橘広庭宮」跡に建てられた長安寺ではないかというのが須川説の根拠になっています。 しかし「那の津(那大津)」より遠方過ぎる点を疑問視する説もあるようです。
ところで斉明天皇は風雲急を告げる状況の中で九州へ入る直前、熟田津の石湯行宮(愛媛県・現在の道後温泉)に立ち寄り長期滞在しています。 これは斉明天皇が温泉を好んでいたか、湯治をしていたためだと思われるのですが、この朝倉市須川の周辺にも原鶴、吉井、筑後川、林田などの源泉が多く存在します。 そういった事より斉明天皇が滞在する宮が 「那の津(那大津)」より遠方とはいえ、この「須川」辺りの土地に選ばれても不自然さはないのではと推測する説もあります。 またこの頃、天皇の実務は中大兄皇子が遂行し、斉明天皇が自ら実務処理を執り行うこともなかったと想像されます。 個人的にはこの記事の着地点を「朝倉橘広庭宮」の所在地は不明としたかったのですが、どうも「朝倉橘広庭宮」朝倉市須川説は妥当な説のようです。


朝倉地区の幾つかの史跡を巡ってみたのですが、「朝倉橘広庭宮」が須川にあったのは間違いないようです。

「筑前国続風土記」に記載される「朝倉橘広庭宮」について詳しく知りたい方はこちらへどうぞ!
中村学園電子図書館「筑前国続風土記」(pdf)のページへリンク






【金印はなぜ志賀島で発見された?】
 -奴国王の思惑は?-

江戸時代より金印には贋物説があるですが、その説の根拠の一つに奴国の中心地から遠く離れた志賀島から見つかった不自然さが挙げられています。確かに漢の皇帝より奴国王に送られた金印が、奴国の勢力範囲だったとはいえ、なぜ10㎞近くも離れた島から発見されたのか、誰もが不思議に思うのは自然なことなのかもしれません。
ところで金印に刻印された「漢委奴国王」という文字は「漢の倭の奴の国王」と解釈されるのが通説となっています。ちなみにこの時代より約200年後には、卑弥呼が魏の曹叡(そうえい・曹操の孫)より「親魏倭王」印を送られています。こちらは「魏と親しい倭王」という意味で倭国を独立した国と認めているのですが、「漢に属する倭国の中の奴国王」となると、倭国全体も奴国自体も漢の一部とみなす表現で奴国王としてはとても承服できない内容であったに違いありません。
仮にもしこの印を奴国王が使用するようなことがあれば、倭国内の他の国々からも批判の声が上がったでしょうし、倭国よりの独立を疑われそれを理由に攻められる可能性も皆無ではなかったでしょう。そんな事情で、奴国王はこの友好の品の取り扱いに苦慮したと思われます。
江戸時代に金印贋物説を唱えた派閥の中には「わが国を清国の領土とするような金印などいっそのこと鋳潰してしまえばよい!」と荒っぽいこと言い出す人も現れたようですが、奴国王も同様なことを思ったのかもしれません。さすがに友好の品を鋳潰す事までは考えなかったのでしょうが、金印を極秘裏に奴国の片隅の島に封印してしまった。といったシナリオも一つの説としておもしろいのかもしれません。

今から約2000年前、使者が持ち帰った金印を前に奴国王とその臣下たちはどのような問答を繰り広げたのか、今となってはその様子を想像するしかありません。






【金印はなぜ志賀島で…?その弐】
 -大夫の思惑は?-

「金印はなぜ志賀島で発見された?」で金印が志賀島で発見された理由を「金印の刻印が奴国王にとって都合の良くないものだったため」と記述しましたが、抽象的な疑問には幾通りもの説があって良いと思いますので、もう一つの説を載せようと思います。(以下では内容を解かり易くするため「奴国」を「那国」と替えて記述します。)
西暦57年、那国王の命で大夫(たゆう・官職名)は後漢に派遣されますが、後漢の光武帝は朝貢品の返礼に「漢委奴国王」と刻印された金印を送ります。
大夫はこの金印を携え帰国しますが、その帰路に金印を那国王に提出すべきか迷います。
「漢委奴国王」の意味は「漢の委する奴国王」で那国王は漢の皇帝に任命された事になってしまいます。また、それに輪を掛けるように「那国」の「な」が奴隷の「奴」に書き換えられているのです。これを提出してしまうと、那国王より怒りを買うのは目に見えています。
そこで大夫は那の津の港に入る直前に志賀島付近に停泊し、信用のできる部下たちと相談の上、志賀島に小船で上陸し極秘裏に金印を埋め隠します。その後、金印は忘れられ、1700年後の江戸時代に農民によって発見された。といった筋書きは余りにも想像力がたくまし過ぎでしょうか?

この頃より約500年後の飛鳥時代に遣隋使の小野妹子は「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなしや」といった書状を隋の皇帝に届け、皇帝の機嫌を損ねます。皇帝は返書を小野妹子に託しますが、妹子はこの返書を朝廷に提出する事はありませんでした。想像なのですが、大夫もこの小野妹子と同じ状況の中にあったのかもしれません。






【福岡城に天守はあったか?】
 -福岡の歴史に登場しない幻の天守閣-
福岡城 天守台

以前は福岡城に天守閣はなかったいうのが定説だったようですが、最近になって細川家の古文書より「黒田長政が天守閣を取り壊すらしい」といった文書が見つかったため、その存在の真偽の議論が活発化しているようです。
福岡城は1607年に完成していますが、「完成」という事はこの時点で天守閣まで出来上がっていた事になるのではと短絡的ではありますが、ついそう考えてしまいます。 また現存する天守台を実際に見学した者とすれば、「ここに天守閣がなかったハズがない!」と感想を持ってしまうのですが・・・。
どちらにしても1640年代の福岡城古図には天守閣が描かれず、 少なくともこの頃には天守閣が存在しなかったというのは事実ようです。


 1601年 福岡城築城始まる
 1604年 黒田如水死去
 1607年 福岡城完成
 1614年 大坂冬の陣
 1615年 大坂夏の陣(大坂城落城)
 1616年 徳川家康死去
 1620年 細川忠興の手紙(細川家古文書)
 1623年 黒田長政京都にて死去
 1632年 黒田騒動
 1646年 福岡城古図に天守閣描かれず


左の年表はこの頃の黒田家に関連するおおまかな経緯です。 これは天守閣の有無の判断にはならないのですが、「大坂夏の陣」で最新式大砲の攻撃により崩壊してゆく大坂城を目の当たりにした長政は天守閣の不要性を思い「御代には城も入り申さず候」(細川忠興の手紙)という考えに至ったのではないでしょうか。





この記事は『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』「福岡城」の内容を参考、引用させていただきました。

「福岡城」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2014年3月9日(日)11:50
http://ja.wikipedia.org/wiki/
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【「筑前宮崎村」はどこにある?】
 -福岡と熊本の宮崎兄弟は同族?-
熊本県荒尾市 宮崎兄弟の生家

福岡の宮崎兄弟といえば「秋月の乱」に中心人物として参加した宮崎車之助、今村百八郎、宮崎哲之助の三兄弟の事ですが、熊本にも明治期に宮崎兄弟が登場します。 その次男の宮崎八郎は中江兆民らと親交を持ち自由民権活動に奔走、そして西南戦争で西郷軍に参加し八代で戦死します。 また弟たち民蔵、彌蔵、寅蔵(滔天)らは孫文を支援し中国革命に深くかかわります。 孫文も訪れたことのあるこの兄弟たちの育った生家は現在も荒尾市に残り観光名所となっています。
ところでこの宮崎兄弟の生家の案内板には「宮崎家の祖は筑前御笠郡宮崎村の住人で・・・」 と宮崎家の祖が筑前にあったことが記載されています。 しかしこの「筑前御笠郡宮崎村」は現代地図や筑前古地図をいくら探してみてもそれらしい地名が見つからず、また貝原益軒の「筑前国続風土記」にも宮崎村は登場しないのです。 ただ現在の筑前町の依井(よりい)には字(あざ)宮崎という住所があり、もしかしたらここが八郎や滔天ら兄弟の祖が住んだ宮崎村なのかもしれません。 そしてこの依井より北東へ6㎞ほどのところに秋月城があり、依井は黒田秋月藩の領内だったということから「秋月の乱」の中心人物・宮崎兄弟と荒尾の宮崎兄弟は同族の宮崎氏だった可能性が出てくるのです。 ただし筑前古地図ではこの筑前町依井という土地は「御笠郡」ではなく隣の「夜須郡」になっており、宮崎兄弟の生家の案内板の内容と異なっています。 「筑前、肥後の宮崎兄弟同族説」はなんの証拠もないあくまでも想像の域を出ない話なのですが、真実を追う事とは別に、このような想像力を逞しくして考える事が歴史を探求する原動力となるのかもしれません。


余談になりますが、ここで取り上げた宮崎滔天は、飯塚の石炭王・伊藤伝右衛門の妻・柳原白蓮と駆け落ちした宮崎龍介の父親になります。
この白蓮事件で絶縁状を受けた伊藤伝右衛門は「末代まで一言の弁明も無用」と2人の仲を妨げるようなことはありませんでした。そして白蓮が10年ほど生活した旧伊藤伝右衛門邸は現在では飯塚市の観光名所となっています。